ひとりでにそうなった
毎日毎日、飽きもしないでwalkingというものをやっている。なに、理由は簡単である。gymを退会したからである。配偶者に辞めさせられたというほうが正解かもしれない。なぜって、運動をしているのではなくて、gymの温泉やサウナに入っていただけだろうという疑念を持たれたからである。ついでにいうと、それで体調を崩したと思われていたのである。運動はしていたのである。しかもyogaまでやっていたのである。ただし、ゴミのような論文を執筆していたのが、10時間であったから体調を崩したのであるが、運動はしていたのである。マジである。マジ。
つまり、「ひとりでにそうなった」わけである。みっともないけど、そういうことである。そういうこと。
まったく、これでも自称スポーツマンであったのだから、しょうもねぇじーちゃんである。
「ひとりでにそうなった」というと、日本の自然宗教というものがたいへんおもしろい。
つまり神道のことである。
実は、毎日のwalkingで「カコチャン神社」と私があだ名をつけている神社まで行くのである。ここの跡取り娘が、私の配偶者と同級生なのである。あ、娘ではない。私の配偶者と一緒で、相互に孫のいる立派なおばーちゃんである。彼女の名前がカコチャンなのだ。
私が、体調を崩して居住地の大病院に入院していたときに、カコチャンが見舞いにきてくれた。そうなのである。その大病院の長いこと職員をやっていて、再雇用でまだ仕事をしていたのだ。この二人のおばーちゃんたちは高校時代から仲良しで、今でも軽自動車で二人旅に出ている。
そのカコチャンは、神社の跡をとるために、現在、神職の資格にチャレンジしている。なかなかの才女である。
だから、私は、その神社にwalkingの度に参拝してくるのだ。生涯学習の手本であるからである。見習いたいのである。
さらに、歴史のある由緒ある神社である。居住地の市史で知った。これもまた郷土史の勉強になった。
さて、「ひとりでにそうなった」というのは、自然にできた宗教であるということである。
仏教伝来以前からあった日本古来の宗教である。明治維新からの神道は、若干イメージが違う。国家神道としての変化をしてしまったからである。
私の好きなのは、地方地方に伝わっている古層的な宗教としての神道である。その土地土地に住んでいる人間が勝手にこしらえたのが、古来の神道であると思っているのだが、そもそも「ひとりでにそうなった」日本思想であるとまで思っている。
言わば、自然宗教である。自然にできた宗教である。これは最澄とか、空海とか、親鸞とか、道元とか、日蓮とかという創唱宗教とは違っている。むろん、一神教であるイエス教(キリスト教)とも違う。
丸山真男大先生が言っていることの一つに、「なる」という指摘がある。『古事記』『日本書紀』で一番煩瑣に使われている語が、「なる」であるということを指摘してくださっている。
これは、日本という自然で、草木が狂気のように繁るという語と共通している。
更地にしても、放っておいたら、雑草だらけになってしまうのだ。これが大陸だと違う。けっこう乾燥しているではないか。
そういう自然へのある意味諦めがある。日本人の古層意識の中には。そりゃそうだろう。これだけ自然災害が多く、台風も律儀にやってくる国はなかなかない。かの元という国も、二度日本に攻め込んできて、そのたびに台風に撃退された。
トンボも多い。顔にぶつかってくるほど多い。こんな国は世界でも少数だろう。東北に住んでいたから、トンボは本当にいくらでもいた。悪党のガキであった私には格好の遊び相手であったが。
しかし、「なる」は思想そのものではない。まったくない。自然をそのまま表しただけであって、「ひとりでにそうなった」草木を表しているだけである。
ここに、古層宗教の特徴があるのではないのか。素人だから、いくらでも勝手なことがいえるのだが、楽しいもんである。
そうなのである。研究者でも学者でもなんでもないからである。素人の郷土史愛好家でしかないから、仮説だけはなんでも言うことができる。だから楽しいのである。そして、関連する書籍を漁る。図書館で遊んでくる。
「なる」というのは、どうにもならないことになってしまったということでもある。
なにしろ「ひとりでにそうなった」のであるから、どうにもこうにもどうしようもない。
だから、最後に、「ひとりでにそうなった」のは「オレの責任ではない」と付け加えるしか、私には考えられないのである。
所詮そんな程度である。
所詮。
今日は孫が帰ってしまう。
実に哀しい。
じーちゃんの嘆きから始まった今日のこの記事である。
ああああああああああああああああ。
さみしいでしゅ。
(^-^)/