孫が自分の年になるまでは生きていられない
明後日に孫が来る。二人である。二歳と、八ヶ月のオトコの子二人である。楽しみにしている。二人とも、産経新聞のひなちゃんクラブというおさなご達のコーナーに二回出していただいた。写真付きである。FBでは紹介したのであるが、拙ブログでもアップする。ま、そんなことはどうでもいい。
それより、なんで孫がこんなにもかわいいのだろうかと感じる。自分の子ではないからであろうとは思う。自分の子は、責任がある。だからかとも思った。
しかし、そうではないようである。
結論から言うと、そろそろ寿命が尽きるからである。私の寿命である。マジである。もう孫が自分の年になるまでは生きていられないからである。
寿命ということから、目を背けて生きて居るのが現代人ではないのだろうかとずっと思ってきた。朝食をいただいて、Sunday Morningというテレビ番組を見ていたら、東工大准教授の女性が、選挙について分析していた。こういうことが、絶対的な課題として報道されていることに暗然となった。なぜ、生きて居ること自体、あるいは人生の、社会の絶対的課題として登場してくるのかということである。
もっと深みのある絶対的課題というのをどっかでやってくれないのかと思う。
このことは、現代日本文学でもそうである。軽いタッチの小説家しか売れない。まるで、ブログの延長上で書いているのではないかと思われる作家がたくさんいる。田口ランディさんもその一人であった。私はこの作家も好きで、いろいろと読みあさった。最近は、田口女史、仏教にも関心がおありなようで、ますます興味を持っている。しかし、文体は軽い。だから読みやすいのであろうが、ちょっと待ってちょ~だいと言いたい。深みのある作風を確立していただきたいからである。
もっとも、これは今をときめく村上春樹もそうだ。ブログみたいな小説と言ったら怒られるが、どうも私はハルキストにはなれないようである。同時代を生きてきたからでもある。
しかも、私の方は、貧乏人であった。ま、貧乏なのは今に始まったことではない。高校を出てから、集団就職列車で上京して、東京の下町中の下町である葛飾金町で新聞配達店に住み込んで、苦学を始めたからである。だから、ハルキストが好きだという方々とは、住んでる世界が違うのである。
偉そうに、政治の分析なんかやっているSunday Morningというテレビ番組の出演者なんかとは、そもそも生まれが違うのである。これはあらゆるマスコミ人にも申し上げたい。なんだか知らないが、世界を牛耳っているのは、マスコミだとか、ディレターだとかという思い込みはいかがなものかとずっと思ってきたからである。
作家の丸山健二も、マスコミと戦ってきた。
一度ならず周囲の文化人たちと何度も喧嘩しながら作品を書いてきた。もっとも注目してきた作家である。しかし、最近の作品は独善に陥っている。楽しくなくなってきた。でも性懲りもなく買っては読んでいる。
しかしである。
やはり物足りないのである。
文学というのは、所詮、生きて居るうちに経験したことしか、対象にできないのではないかという疑いが生じてきたからである。恋愛だの、不倫だの、殺人事件だの、友情の破綻だのということを書いて何の意味があるのだろうと思い始めた。
思想とか哲学に、もっと深入りしていきたいと思っている。
孫がくるということは、いつまでも生きて居る現在というものに拘っていてはならんぞ!ということを教えてくださっている天の声であるような気がしてならないのである。
大いなる勘違いかもしれないが。
わはははっははっはは。
(^_^)ノ””””