それだけのこと
箱根駅伝が近い。各大学の競争になっている。あれは、故郷のみちのくにいた時はまったく知らなかった。そもそも、関東大会レベルの各大学駅伝競走だと思っていた。さらに、テレビの宣伝もうまいから、関東に住んでいる人だけが興味を持っているのだろうと思っていたら、おっとどっこい。全国的な関心を持っているらしい。
らしいというのは、この箱根駅伝に出場すらできない関西、東北、北海道、九州、中国、四国の各大学がおもしろくないだろうと思っていたからである。
そんなことをしてなんになるだろうという人もいる。ま、一部の有力校は大学宣伝にもなるから、応援はするようだが。有名なK大学の陸上部の予算を聞いてあっけにとられたこともあったからである。
就職もできるらしいから、大学生には魅力なんだろう。箱根まで走ったからっていっても、よく考えてみたら、なんの意味もない。日本国家のGDPに貢献しているということにもならない。走り回ったからといって身につくのは、体力だけではないのか。
それならなんでそんなことをしているのか。
比叡山の千日行というのもそうである。ひたすら僧侶が比叡の山を走り回る。それを終えると大阿闍梨というのになれるらしい。そういうのになるためにあれほどの修行をしているのかというと、そうでもないらしい。らしいというのは、私にはできないことであるし、絶対的に不可能であるからである。
そこには、普通の人間には不可能な未知の世界がある。やってみようとも思わない絶対的な境地である。
だから、修行というのだ。
「自分を創る」ために修行をしているのだと思う。
千日行と、箱根駅伝を共通のくくりで語ったら、叱られてしまうだろう。不届き千万ということである。しかし、私は、この両者に共通するものがあると感じている。
やったことのない人間には、「それだけのこと」であるのに、すべてを賭けて熱中できるということが、人間のまか不思議である。思うに、人生には「それだけのこと」が満ち満ちている。
私は、37年間田舎教師をやった。これも、「それだけのこと」である。
自分というのは、「創る」ものであって、それも「それだけのこと」でしかなかった。価値があったか、なかったか。そんなことは天のみぞ知るである。世間的にどうだったかとか、なんとかとか無関係なのである。本当の自分とか、自分捜しの旅とか、そんなものもないのである。
先日、孫を産経新聞のひなちゃんクラブというコーナーに掲載していただいたときに、私の名前も紹介していただいた。で、遠く東京湾近くに住んでいる知人から電話があって、なんでもと高校長だと書かないのだといわれた。
私は唖然としてしまった。
なんで、「それだけのこと」でもとの肩書きまで書かなくちゃいけないのかということである。狭量な世界だなぁと思った。だから、世間から退職した教師は相手にされないのである。そんなくだらないことをいつまでも引っ張っていったら、カバ丸出しである。
もう、そういうカバの世界とはおさらばしたのである。肩書きと、成果主義と、すべてが利益優先主義という世界とは。
だから、箱根駅伝と阿闍梨の世界にちょっとは興味を持つのかもしれない。
わはははっはである。
(^_^)ノ””””