房総一宮で考えたこと
昨日から今朝まで、房総一宮にあるシーサイドオオツカというホテルにいた。このホテルは二度目の宿泊である。
一度目は友人の結婚式で、披露宴をそこでやった。好印象があったので、今度は配偶者を誘って行ったのである。なに、料金は配偶者が払うので行っていただいたという方が正解である。
九十九里海岸のすぐそばにあるいいホテルである。料理も美味い。さらに、従業員の方々が、よく訓練されていて、ここちよいのである。温泉もいい。海岸の温泉だが、濃い茶色をしていて、じっくり入っていると実に暖まる。加熱はしてあるようだが。
料理も小食派の私みたいな客に対応してくださる。そうなのである。もう馬のようには食えないからである。今は、カナリアのようについばむだけである。
かつての柔道マンが情けない。しかし、馬のように食っていたら、死んじまう。
まだ死にたくはないのだ。死んじまうのは実に簡単なことであると、先月体調を崩したときにしみじみ知ったのである。あっと言う間である。血圧が下がったら、人間なんてあっと言う間にあっちの世界にいってしまう。
だから、死ぬまではしみじみと生きていきたい。充実して生きることである。充実というのは成果を持つということではない。
一宮に行ったのは、体調を崩したから、身体慣らしのためでもある。運転もそう。さらに、旅に出ても大丈夫なのかどうかということをチェックするためでもある。年が明けたら、台湾に行かなくてはならない。アミ族の芸能を見てくる。それだけであるが。
これからは決して無理をしないで、ゆっくり生きていこうと思っている。それが私にはいい。四月からやり始める生涯大学というのは入学手続きが書類送付のみである。したがって、おそらく入学できるだろうから、そこで学ぶ。そうである。また生徒をやるのである。いわゆる老人大学である。友人をつくるつもりである。一つの学科で二年。さらに専攻科が一年。楽しみにしている。学費も安い。年額一万五千円である。ありがたいものである。千葉県に感謝しなくてはならない。
なんだかんだとやっているうちに、七十歳になるだろう。
それでいいのである。
それこそ私の生涯学習である。確かに、なんにもならなかったし、資格も卒業証書もとれなかったが、それでいいのである。
人生なんて、あっというまである。
そのあっというまに、些少ながら私を相手にしてくださる方々に、なにかを残していければいいのである。講師(非)をさせていただいている大学で、今はそれをさせていただいている。
こんなチャンスを与えていただいて、こころの底から感謝している。それも、もう三年過ぎた。来年からまたやらせていただく。十五週間もである。
若い人々になにを残していけるだろうか。
そのために、今年度末まで、準備をしていく。
ノートもとって。
だから、毎年同じことを講義しているのではない。
私もまた学びながら、教えているからである。
(^_^)ノ””””