笑顔のなかにナミダがあったりして
昨日もいい一日であった。このような日々が続くことを願っている。
それだけである。
以上。
以上終わりとなってしまうから、もうちょっと書く。なにしろ、文章トレーニングのつもりである。スポーツGymと一緒である。アタマのトレーニング。呆け防止のため。それだけである。考えないと確実に呆けるからである。間で、英語の文法をやったり、英作文、英文解釈をやったりしている。高校受験レベルの数学もやる。やっている。古文の単語ノートも作り始めた。例文を豊富にちりばめている。古文は、すべてを完全にマスターしているわけではないと気がつき始めたから、やっているだけである。
時間がただただ流れているだけである。しかし、仕事人間だった時のように、他人に私の時間を盗まれているという感覚では無い。オレの時間が流れている。しかも自分の意志によって展開している時間の流れである。これはここち良い。
エンデという童話作家に教えてもらった考え方である。この時間泥棒という考え方は。「モモ」という作品である。なかなか難解であったが、爺となったからこそ理解できるようになってきた。だんだんとである。だんだんと。
トレーニングというと、市営のGymである。
昨日は、老人大学の同級生とGymで偶然出くわした。60代である。どっちも。しかし、相手は老人大学の役員を引き受けてくださっている。かなり積極的に生きている。こういう方は、いいもんである。
簡単な挨拶をしてちょとだけ話をした。
こういうNetworkの広がりがいい。またまた人間関係が広がった。仕事はなにをしていたのか、そんなことは知らない。定年退職を、この3月にして老人大学に参加された方である。
気負いがない。お互いに。時間がもったいないから、老人大学に入ったわけでもない。ただひたすら、平安な時間が流れていくことを望んでいるだけである。相手も。たぶん。
Gymに行っているのも、成果をあげるためではない。そんなことをくっちゃべったら、なにを今更と笑われてしまう。時間泥棒たちに。相手にされていないからだ。
盗むべき時間も無いからである。
残された時間なんて我々には無いからである。だからなにも気負いナンテいうものが無い。気負ってみたところでナンの意味も無い。ただし、なにもしないでただただ無為の時間を過ごすというのも、侘しい。
侘しいということを常態にして、それで自己満足していたら、かえって侘しい。
侘しいのは当たり前であるとして、一人閉じこもって陋屋にいじけて住んでいてもならない。
適度な人間関係と、身体・頭脳のトレーニングをしていくべきである。でないと本当に呆ける。
なぜ、そんなに呆けることを警戒しているかというと、脳がすべてであると私は思っているからである。意識を失ったらもう終わりであるとまで思っている。経験上である。去年の11月に入院して、しみじみ思ったからである。失神を3回して、完全に改宗をしてしまったのである。意識は、脳にあるとまで、今は思っているからである。
つまり唯心論をヤメタのである。
こころとか、気合いとか、そういうこころのあり方というのを、去年の10月末までは信条としていた。しかし、宗教改宗ならぬ、考え方の改宗をしてしまった。
輪廻転生も信じられなくなった。
死んだら消滅してしまうだけであると宗旨替えをしてしまった。
そもそも、日本人の土俗信仰というのは、唯心論ではなかったのではないのか。仏教伝来以前から、日本人は土俗信仰を持っていたはずである。現在の神道とは違った意味での土俗信仰である。それが縄文時代にあったはずである。
そういうことを考えるようになってしまった。
だから、土台が崩れてしまった。
病気をしたおかげである。
古代からのメッセージというものを、もっと真摯に見つめ直して行かなければならない。そう思う。思うから、折口信夫先生とか柳田国男先生の全集を再読しているのだ。
さらに、Youtubeでもやっている。宗教学を東大で修めた中沢新一先生が講義をしてくださっている「私のこだわり人物伝 古代から来た未来人」というシリーズは折口信夫を扱っていて、なかなかのものである。こいつを毎日コンピュータ上で見つめている。
若い時から、折口信夫のファンであったからである。
かなりのモンである。自称であるが。
だから、國學院大學に憧れた。日本の古代学、中世についての本当の専門大学であるからである。入れなかったケド。受験しても。もっとも受験料が足りなくて、受験すらできなかった。新聞配達をしながら、大学に通うしかなかったから、学費の一番安いところに行くしか無かったからである。地方大学も学費は安かったが、内容に意味が無かった。書店も地方大学があるようなところではなんにも無かった。私の通学していた高校の市内にも一つ国立大学があった。同級生は70人ほど合格していった。しかし、私は受験できなかった。
何故か。
アタマが悪かったからである。わっははははっはははである。もうどうしようもない。
それに一校しか受験できなかった。カネがなかったからである。受験料が。マジである。新聞配達していくくらいであるから、もうどうしようもない。
最後に退学した大学院もそうだったなぁと思う。能力が無かったのである。こっちに。
学業劣等であったからである。しかも健康まで悪化したというのでは洒落にもならない。
落語にもありそうだよん。長屋のバカ隠居が、なにをとち狂ったか、爺のくせして大望を持ってしまって、若けーのと一緒に勉強をおっぱじめてしまったという馬鹿話である。
爺になって、吉原とかの遊郭に入れあげてしまったというのとは違うから、それはそれで良かったのかもしれない。
最後の大学院の受験料だけは、てめぇーで払うことができたけどねぇ。しかし、こういうのを無駄カネというのであろう。批判されても抗弁できない。特に古女房ドノにである。カネにはシビアであるからである。
今日も天気がいい。
ありがたいものである。
さらに、私のアタマの中も天気がいい。脳が天気になっているんである。笑っちまう。
いつもいつもこうである。
一生治らないだろうケド。
わははははである。
わははははと笑っているしかない。ピエロだからだ。ピエロ。
わはははは・・・・・グスン。
じゃぁねぇ~。
(^_^)ノ””””