古文書講座とGymと中国語講座と塾と
昨日もいい一日であった。毎日毎日、いい体験をさせていただいている。こんな日々がくるとは思ってもみなかった。だいいち、競争がない。成果も求められない。メリットなんてなんにもない。その代わりデメリットもない。なにもない。無手勝流。わがままのし放題。好きなことを言い、好きなものを喰って、バイトして、後は寝るだけである。
老人大学に入ったから、好きな人としか会わない。昨日も、Gymで老人大学の同級生と会った。時々会うようになった。実は、彼も私もGymはこの2月くらいから入った新参者である。だから二人で市営の体育館を探検した。この市営体育館も、巨大なのである。メインアリーナが一つあって、サブアリーナがもう一つある。さらにGym専用のスペースがある。安価である。市営だから、民間のとはワケが違う。さすがに、東洋一の巨大病院を経営している市である。だから、病院も設置してやるから、運動もして健康に注意せよというありがたい「お上」のご託宣であるのだ。これは実にありがたいことである。地方創生の鏡みたいなものである。人口減少の時代的傾向の中で、居住地はたぶん生き残っていくであろう。観光もなにもない。歴史もない。元は海の底だったところである。だから誇るべきものもない。なんだかつまらない人物を郷土史の代表だとして、市はそれでも宣伝にコレつとめているが、ちょっと歴史をかじった人なら眉につばをつけたくなる。その程度でしかない。だから、観光に頼らなかったのである。よって、成功したのである。
野菜と、魚と、海と、豚舎や牛舎や鶏舎の懐かしいにおいが一杯である。そうなのだ。都市化していないのである。つまりおおいなる田舎である。これこそ地方創生のヒントである。誰も彼も都市化して同じようなバカな建物を建てて、悦に入っていたらそりゃ滅びる。
工夫がないからである。東京のまねをしていたら栄えるってか。そんなの誰でも思いつく。
要するに生き残るために何が必要かということを考えるしかない。
その一つが、いかに健康で生きるかということである。仕事なんかではない。仕事優先で生きていると無理をする。したがって、限界以上のことをする。だから無理は禁物なのである。無理をすると健康を害する。能力以上のことをやって、身体を壊す。そこまでしてやるべき仕事なんてない。
仕事でもって認められたいからと頑張る。それはそれでいい。しかし、そんなの嫉妬心と裏腹の関係である。
収入は大切である。
だから稼いでカネをもらって、それでもって生きて行ければいい。なにも健康を損ねてまで、頑張る必要はない。
そもそも頑張るという言い方が、私には合わない。嫌いである。若い人には必要であろう。頑張るという言い方も。しかし、それは「も」という程度の付加的な価値しかない。
頑張れば、天才になるのではない。天才というのは、天から恵んでもらった才能である。だから誰でも持っているものである。それが得手不得手があって、できるもの、できないものが人によって違うというだけである。努力は天才をつくるのではない。天才というのは、そもそも生まれつき持っているものであると、私はずっと思ってきた。
具合が悪くなるほと、頑張ってはならないというのはそういうことである。そういうこと。
また、少子化なら少子化でいい。だったら、それは老人社会を意味する。老人が多くなったらなったで、老人がいかに住みやすい地域社会を創るかという観点があってもいい。そりゃカネにはならないだろう。爺婆だけでは。それでも付加的な価値はついてくる。居るだけもいいからである。爺婆が多いと、住みやすいのではないかとなる。問題はそういうことをどのように広報していくかということである。福沢諭吉である。彼は、広報の天才であったと思うからである。だから今日の慶應義塾の発展がある。中身もたいしたもんである。チョー・エリート大学になっちまっている。
昨日は某大学でも、いろいろとやっていた。教育工学をしゃべっているのだが、具体的な話が多い。私の場合は。さらに教育方法として教師のふれあいの技法ということも資料を配って話した。昨日は論理療法(アルバートエリス)のことから、いろいろと進展していった。なかでも、論理療法から見た「教師のパーソナリティ」というのはしゃべっている私も楽しかった。ちょっとだけ紹介すると、①自分を受け入れているか、②きさくであること、③打てば響くこと、④人生をエンジョイする、⑤覇気のあることの五点にわたってちょっとだけ話をした。具体的な例をあげてである。なにしろこっちは40年近いキャリアがある。具体例の宝庫である。わはははははっはである。これ以上は書かないが。
授業が終わってからも、女子学生が近寄ってきて、生徒からの質問と教育のシステム化の関連ということで短い時間ではあったが、ミニ議論をした。こういうのが楽しい。実におもしろい。男子学生も来た。そして、こういう授業だと、どうしても教師になりたいという希望に燃えてくると言っていた。ありがたいものである。教師の後輩が順調に育っている。
それが私に残された余生の送り方なのであろう。
線香花火のように、いつ燃え尽きるかまったく分からないし、それででもいいと思っているので。
さ、今日はかなりあちこちと行かなくてはならない。
午前中は、土佐日記の古文書講座。もう私としては、土佐日記の解読作業は終わっている。だから、講師センセの講義は復習になる。楽しみである。講師センセと同じ種本を使って一人でやってきたから、後は確認するだけである。教えていただくだけでもありがたい。
飛んで帰ってきて、午後一番で市営のGymに行く。
運動をしてから、午後3時45分から今度は学業劣等で退学した大学がやっている中国語講座に行く。全部で10回。3000円という受講料金である。ありがたいものである。成東駅の前にあるインフォメーションセンターでやってくれる。講師のセンセは、同大学の中国人留学生である。だから本格的なネイティブの発音が聞ける。なかなか覚えられないのが、致命傷だが。こっちの能力がないから。
そして、とって返して、今度は夜の7時30分から塾がある。
こっちも楽しみである。昨日も塾に行ったが、数学、英語、理科、社会とやった。まったく、まったく。笑ってしまう。国語の需要がない。もっとも、ある男の子が「とーま君センセは、小論文の神様だとボクの姉が言っていたよん」と冗談で云っていた。それで思い出した。彼の姉は、居住地にあるS高校という進学校から、第一希望の大学に進学していったんだっけ。どうしても小論文が苦手で、塾のオリジナル教材を使っても書けなくて、とうとう私のところにお鉢が回ってきたのだっけ。書き方のこつを二日くらいしゃべったら、さすがに進学校である。あっと言う間に理解して、書けるようになってしまったのである。喜んだのは彼女ばかりではない。塾関係者もである。むろん私もである。
しかし、理科の力の働きというものなんか、久しぶりにやった。高校入試レベルのだからできるようなものの、これじゃぁ呆けている暇もない。
わはははっはははっはははである。
まったく笑っているしかない。
それではこの辺りでそろそろ。デカケルので。
(^_^)ノ””””