中国語講座でお会いした方だったっけ
昨日もまた良き日であった。
午後から退学した大学がやっている中国語講座に行った。Gymへ行ってそれからである。
いつも思うのが中国人留学生のことである。日本語が実に上手である。参る。私の方は中国語がまったくできない。どうやって日本語をマスターしたのであろうか。そう思う。実際、大学院在学中に少ないクラスメイトたちに聞いたことがあった。その中に、入門が日本のマンガからだというがあった。首肯できた。そうかもしれない。つまりイメージから入るということである。映像というか、絵というのか、そういうことから入ると確かにわかりやすいかもしれない。
しかしだ。
中国の方々というのは、アジア人である。そして、我々日本人とまったく変わらない顔をしている。
だから、違和感がある。つまり、同じ顔をしているのに言語が違うわけである。
あるサイトで、太平洋戦争中に、中国人相手だとなかなか戦争できないと書かれていた。顔が同じだからだという。ある意味、納得できる。話している言語が違うだけで、顔は一緒である。
これはなにも中国人だからというわけではないだろう。欧州や米国も一緒のはずである。しかし、欧米人とはまた違う意味で、アジアの人間には親しみを感じるのもまた実感としてある。
理念としては人間皆兄弟というのはわかる。わかるが実感が違っているのだ。アジア人にはアジア人特有の親しみがある。そう感じるのだからしょうが無い。
どっちが格上で、どっちが格下だというような政治的な興味関心は全く無い。ましてや、中国人になりたいというのでもない。憧れもない。あくまで比較文化での話でもって、いろいろ勉強しているだけである。言うならば、私の自分勝手な都合で勉強しているだけである。
だから、世に認められるためとか、実績を上げてこれから教授になろうとかいう大望もない。そんなことはもう遅い。テオクレである。そもそも絶対的な能力がない。まったくない。見事なほどない。ないないのぱーである。
ただの趣味でやっているだけである。
お笑い草なのである。
趣味だから、生涯学習をやっているだけである。
中国語の受講生仲間のリーダー格であるT氏という方が亡くなられた。それを昨日聞いた。身体の大きな方で、上級コースにおられたから話もホントにしたことがなかった。中国人留学生とも平気で中国語での会話を自由自在にこなしておられた。心筋梗塞であったという。全員で黙祷をささげて、ご冥福をお祈り申し上げた。それとともに、私もいつまで続くのかとふと思った。私だってどうなることやらわかりはしない。血管系の病気というと、心筋梗塞もそうであるからだ。エコノミークラス症候群だって血管系の病気である。だからである。だから他人事ではないのである。
しかし、常に死を意識しつつ生きているっていうのも悪くはない。
そうなのだ。
誰だって100%死ぬからである。
逃れられない運命である。100%である。平等にである。だからジタバタしたって始まらないのだ。
本当にそう思う。
いつまでも生涯学習だといっていられるのも、生きているうちだけである。
死んだらできない。
そんな当たり前のようなことを昨日は思った。
だからこそ今現在が重要である。
だから今を一生懸命生きていくしかない。生涯学習もその一つである。それだけである。
気負ったってしょうがない。
ノルマもなにもない。
やりたいようにやっているだけである。
成果も残す必要も無い。
実績も不要である。
なんにも要らないのである。
ただひたすら、故人の生きた証を求めて、草の枕を友としてさまよい歩くしか無い。
(^_^)3 フムフム。
今日は珍しく、しみじみとした感じになっちまった。
T氏のご冥福を祈るだけであるから。
(^_^)ノ””””