こういふ関係性を作れる教員を・・・・・・微力ながら、やっていきたい。
タカトシの涙が止まらナイト:泣ける実話ドラマ 『先生と少年』 ~35万人が涙した感動実話~ 『心に響く小さな5つの物語』 藤尾秀昭・文、片岡鶴太郎・画、致知出版社刊より
こういふ関係性を作れる教員を・・・・・・微力ながら、やっていきたい。
タカトシの涙が止まらナイト:泣ける実話ドラマ 『先生と少年』 ~35万人が涙した感動実話~ 『心に響く小さな5つの物語』 藤尾秀昭・文、片岡鶴太郎・画、致知出版社刊より
爺婆にならないと分からない心境というのは、こういうこと・・・
タカトシの涙が止まらナイト:「泣ける人形」
爺婆になると、こういう心境って、マジにわかるようになったですね。
タカトシの涙が止まらナイト:「泣けるおばあちゃん」
2014年6月
TOSANDOmusicに ひとりの男性がやってきました
千葉次郎さん 57歳 職業 内装業
次郎さんには ひとつの願いがありました
「4ケ月後の息子の披露宴で、サックスを演奏したい」
儚くも素敵なキッカケから 音楽と真剣に向き合い続けた4ケ月間
そして迎えた 結婚披露宴当日
ゼロから始まった千葉次郎さんの挑戦は はたして…
『千葉次郎の挑戦』 Supported by TOSANDO music
動画は、ピアノとは縁遠いはずの新婦の父が、披露宴で突然演奏する場面から始まります。曲はパッヘルベルの「カノン」。新婦が小さいころ、今は亡き母親と一緒に練習した思い出の曲です。いぶかしげに父を見つめていた娘の表情は、みるみる崩れていきます。
父のぎこちないメロディーにあわせて、母娘がピアノを演奏していたころの回想や、夜の音楽教室で父がピアノを学ぶシーンが挿入されます。最後にあらわれるメッセージは「音楽は、言葉を超える」。
TOSANDO music CM 披露宴編 full
歴史ミステリー 神の島の海底遺跡!2000年前に不老不死の王国があった!?
さみしくなってしまった孫たち
昨日も良い一日であった。
帰っていく孫たちを見送って、それから午前中の散歩をして、午後四時過ぎに市営のGymに行った。間で、塾の教材研究と古文書講座の伊勢物語と方丈記の解読作業をやった。予習である。それと中国語と英会話もちょっとだけ。それだけである。それだけ。
夕方婿殿に電話したら、3歳の男の子の方が泣いたのだそうだ。古女房ドノ曰わく。私は電話に出なかった。千葉にまたお出でねぇ~と言ったら泣いたのだそうだ。さみしくなったのであろう。二泊三日であったが、楽しかったのであろう。ちょっとした短距離・短期間旅行だからだ。それに、爺と婆しかいないから、まるで旅館にでも泊まっている感覚になったのかもしれない。風呂もアパートサイズではないから、十分な大きさがある。色もピンクである。笑っちまうけど。
こうやって思い出を作りながら、大きくなっていくのだろう。それに対して、ちょっとだけお手伝いをすることができれば、それでいい。成果は期待していない。もう、子育てからは解放されたから、孫の育ち方には関心はあるが、責任はない。
相談されたら応じるだけである。完全に受け身である。
放っておいても、子は育つ。
だから、自分でやる気にならなければ、教育というのは効果はない。それに、日本社会は一見平等にできているという錯覚に陥っている人が多いから、しゃかりきになって教育に投資する。教育に関わってきたから、ありがたい。ありがたいが、果たしてそれだけでいいのだろうかとは思う。そんなアホな、オメェだって生涯学習とかなんとかと言って、気取っているではないかと言われる方もいるだろう。ま、気取っているというのは当たっていないとしても、自分で勝手にやる気になっているからやっているだけである。楽しいからやっているだけである。
ナンのノルマもない。義務もない。なんにもないから、やっていられるのである。
こういうのが気に入らないという方もいるだろう。でもねぇ~、自由気ままに生きていられるから老後が楽しいのである。
これをいつまでも成果だなんだと言っているようでは、アンタもあんまりいい老後は送れませんですよんと申し上げたい。
理由は、いつまでも人間の個性というものが永続するという勘違いをしているからである。
あるいは健康もである。
いつまでも、人間の個性と健康が続くわけがない。それを忘れているから、無茶をするのである。朝まで呑んだり。麻雀とかやったり。あんまり呑みすぎて・遊び過ぎて気を失ってしまったり、二日酔いになって問題を起こしたりしたらいけない。失敗の原因である。
気をつけなはれや!と申し上げたい。
人生においてそんなにつきあいというものが重要だとは、とても思えないからである。
酒呑みの友達というものは、こっちが呑めなくなったらそれでお仕舞いである。寂しいけれどもそうである。それが真実である。遠慮というものが、お互いにあるからである。おめぇのせいでオイラの具合が悪くなったと言われたくはないからである。それが酒呑みの心理であろうから。
で、前提にオレの仕事や、健康は永遠に続くという大きな勘違いがあるからである。
そんなことはあり得ないということは、誰でもわかることである。
永遠に続くということは、欧米の霊魂不滅説である。一神教の主義主張である。なにしろ死んでも蘇って、最後の審判があるのだから。だったら、私が具合が悪くなって、痴呆症になっていたら神様が困るではないか。もしかしたら、その時は治っているってか。わはははっはははははっははは。疲れる話である。最後の審判の時に何でも治っているんだったら、こんなわかりやすい話はない。ありがたいけど。
つまり、いつ病気になるか、それもなんにもわかっていないのが、我々庶民である。あ、我々庶民と言ったら、自称エリートの方には申し訳ないか。禁句、禁句。もっとも自称エリートは、こんなバカブログなんか誰も見ないだろうから安心しているケドね。
しかし、病気は突然襲ってきますぜ。
油断していると。
突然病気になった私が言うのだから間違いない。油断していたし。健康には自信があったし。夜遅くまでゴミ論文を書いて自己満足していたし。酒も十分呑んでいたし。特に、泡盛が好きで、これまた十分呑んでいたし。
全部過去形になっちまったんですよん。
バカだったからである。
バカは今でも治っていないけど。さすがに今は一滴も呑んでいない。去年の11月4日からである。入院した日である。この日は、私の再生の記念日である。これだけ長い間健康に配慮した日々はこれまでなかったからである。
それでも、いつ死ぬか。
それだけは誰も分かっていない。いつその時が来るかである。その時は、その時である。意識を失っていくのである。徐々にであるか、いきなりであるか。そんなことは誰も分からない。
仕方がないのである。死ぬときは。
仕方がないから死んじまうのである。予定になかったからである。たとえ、末期の癌になっても予定どおり死ぬわけではない。逆に末期癌は意識があるからこそ、辛いだろう。意識がはっきりしているからである。あれこれ考えてしまうからである。そういうのを勉強するのが、「死生学」というやつである。武蔵野大学で教えていただいたっけ。通信教育で。
この経験が私を変えてしまったと思う。
成果というと、これしかない。老後の過ごし方というだけである。そういえば、「老年学」というのも教えていただいったっけなぁ。
すべて今の老後の生活に役立っているからである。
それが唯一の成果であったのかとは思う。
考え方一つである。死に方も。
そういうことを学んだからである。
さ、今日も天気がいい。
孫の使った布団を干して、散歩に行って、不要になったストーブを捨てて一日が始まる。
それだけである。
いい一日でありたいものである。
じゃぁねぇ~。
(^_^)ノ””””
「ただの人」生活が始まってしまう
昨日も実に良き日であった。
孫と一日中遊んで暮らしていた。ありがたいものである。「ただの人」だから、こんな風に年金暮らしを楽しむ... goo.gl/A7TebW
わはははっははははっはは。
オイラのように学業劣等で退学したのは、どうなんでしゅか?
わはははっはははっは。 fb.me/4bs7eQYcO
民俗芸能STREAM新聞 is out! paper.li/souryukutsu/13… Stories via @sabcde_ex @1533Art @URUHU
【奈良大仏の頭部】『朝日新聞報道写真傑作集〈1951-1957〉』には奈良大仏を頭上から撮影することに成功した一枚が掲載されている。当大仏は平重衡による南都焼討(再興は重源、陳和卿)、松永・三好の兵火(再興は公慶)で二度焼失している。 pic.twitter.com/ZoOXkpO3ZD
土足でおれの世界に女は踏みこんでくる、どの女もだ、という感想がおれに浮ぶ。そしてどの女も、そのことを、おれを自分の方へ引き出す風に考えちがいしている。-見殺す