ささやかな楽しみ・・・老人大学
昨日もいい一日であった。と、書くとブログ日記としてはこれにて一丁上がり。以上終わりとなる。実にシンプルである。シンプルというと、爺の日々なる日常というのも、簡単明瞭である。朝起きて、午に飯を食って、夕方また飯を食って、途中トイレに行って、風呂入って寝た。そう書けばそれでいいではないか。そう言われる方もある。爺の生活なんてそれだけでしかないではないかと。そうかもしれない。そうかもしれないけど、そういうシンプルな中に、楽しみもある。散歩してつまらない野草や花を眺めることもまた楽しみである。とうとう、Amazonから図鑑まで買った。散歩の途中で見かける野草や花をポケット型の本で調べるわけである。花の名前は、まったく苦手であるからだ。そういうささやかな楽しみもあるのである。現役時代には、考えてもみなかったことである。
こういうのを余裕と言えば言うのかもしれない。しかし、本人には自覚がない。余裕でやっているというのはない。そもそも、「・・・・ねばならない」というのが、私にはない。まったくない。固定観念というやつである。
サラリーマンは***でならなければならないとか、教師は***でなければならない、自営者は***でなければならないというような、文章記述で書かれることを言っている。
これは有名な般若心経にも書かれていると思っていた。
即ち、「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。」の部分である。特に「即是」の部分である。普通は色だから空である。空だから色であるというように、AだからBである。是則ち***であるという論理の導き方をする。
サラリーマンは***でならなければならないとか、教師は***でなければならない、自営者は***でなければならないというような展開と一緒であると思っていた。
サラリーマンは、即是組織人である。
教師は、即是真面目である。
自営者は、即是金持ちである。
以上のような文章記述があると思っていたし、それはそれで正解であろうと思っていた。
しかし、般若心経はそうではなかった。この即是というのは、「AかつB」であるというのである。野口武彦先生の幕末ものの書籍に書いてあったのである。
すなわち、「色は空であり、かつ、空は色である」ということを即是は説明しているというのである。(『日本思想史入門』ちくまライブラリー)
これはこれは。目から鱗というのはこういうことであった。即是というのは日本だけが異常な発展をしていったと書かれてあったのだ。野口先生は、江戸時代がご専門であるから、あちこち話題は飛びながら書かれてある。それもまた楽しい。神仏習合というのにひっかけて書かれていたのであるが、サンスクリットとの比較もされながら、般若心経のことも書かれていたのである。
最近、野口武彦センセの読書ノートもとっているので、こういうことがこころに引っかかってくる。これもまた読書の楽しみでもある。
否、話題はそういうことではない。
つまり「・・・・ねばならない」である。
これは、一度自分のこころの中に確定してしまうと、修正がなかなかきかない。
なぜか。
「・・・・ねばならない」を修正してはならないという固定観念がきっちりと確定してしまうからである。二重の固定観念である。
さて、人間は行動する存在である。
考えるということも、行動と密接にリンクしている。私はそう思っている。瞑想だけしていればいいというもんではない。それは禅者にでも任せておいて、行動とリンクしていなければ収入もない。収入もなかったら、食えない。食えなければ餓死してしまう。
行動するから人間である。
だからどんなにつまらないと思われることでも、真剣に考え、行動していくべきである。
思い込みでもって、自分を狭い範囲に閉じ込めて、自己規定をしてはならない。
そういう人生はつまらないだろう。
いろんな夢をみていいのである。たとえ実現不可能であってもいい。行動に結びつければいいのである。それをである。狭い固定観念でオノレを縛って、追い込むことはない。
自分を追い込む人は、他人をも追い込む。
他人を責める。
つまらないミスを取り上げて、いつまでもグチグチとやる。
考えが狭いのである。人間の器というのは、固定観念を持った人間のその固定観念の大小のことを言っていると思っているのだがいかがだろうか。固定観念も全部悪いといっているのではない。ある程度の拘りがあっていいのである。しかし、それが全てではいかがなものか。
柔道もそうだ。柔道に拘りがあってもいいのである。専門にやってきたならきたでそれはそれでいい。しかし、あまりにも極端に拘ると人間の幅を狭める。職人芸になってしまう。柔道のプロになるかならなないかという二者選択しかないのでは寂しい限りである。柔道でもって、社会で活躍するというのもあっていいのである。
剣道にはそういう人もいる。
千葉周作とか、柳生一族のように剣をもってして、政治に影響を及ぼしたりする流派もある。
反対に、宮本武蔵のように独自の心境を作ってしまう剣豪もいる。
剣即是武道。
武道即是剣。
こういう縛りを持っていたら人間の幅を狭める。
剣かつ武道、武道かつ剣。
これくらいでいいのである。
あるいは、爺即是ダメ人間、ダメ人間即是爺という展開を主張される自称エリートもおられるかもしれない。
しかしである。
本当にそうだろうか。
ダメかもしれないけれども、ダメでない爺だっている可能性はあるのではないのか。
今日は、ダメでない爺婆たちと一緒に学びの時を過ごしてくる。これから老人大学に行ってくる。
楽しみだからだ。
ささやかな。
では。
(^_^)ノ””””