嵐のような時間がやってきた。
昨日塾から帰ってきたら、孫二人が来ていた。三歳と一歳の男児である。むろん彼らの両親共々である。
嵐のような時間がやってきた。
孫がいると楽しい。実に楽しい。なんにもできない。コンピュータなんかいじっていると、脇からバンバンとキーボードを叩かれてそれでおしまい。
ジージよ、なにをやっているんだよん?というような顔をしている。二人とも。だからその仕草がなんとも言えずかわゆいのだ。
ジージになって良かったなぁと思う至福の時である。
9:23現在、孫と娘夫婦は、九十九里海岸に遊びに行っている。孫のいぬまのコンピュータである。メールを見て、全部関係ねぇやと削除して、それからゆっくり麦茶を飲みながら、打鍵している。
「孫の力」という新書がある。中公新書で出ている。島 泰三著である。ちなみにこれもブックオフという古本チェーンから買った。
これがすこぶる良書である。ジジババになったら一度読まれたらよろしい。東洋経済のオンラインで以下のように書評があるから、引用してみる。(http://toyokeizai.net/articles/-/3790)
>ニホンザルなどの生態を研究してきた霊長類学者によるヒトの赤ちゃん(孫娘)の観察記録。
>著者曰(いわ)く、ニホンザルにも孫はいるが、サルのおばあさんは孫を特別な存在として特に意識することはない。しかしヒトは違う。孫と祖父母とのつながりには、単なる生物的な関係を超えた、社会的・文化的な意味が隠されている。人の祖父母は孫に触れ、世話をすることで自分が覚えていない幼い時代の思い出を記憶より深いところから蘇らせ、孫に未来を見るという。
>孫娘の成長を6年間にわたって観察し、まわりの親しい大人たちとの関係の中でヒトの心がどのように作り上げられていくのか、その起源をたどる。
なかなかいいことが書いてある。
まさに島センセのおっしゃるとおりである。
特に「笑い」である。島センセも言われているが、「笑いは無限」である。
「ほほえむ、笑う。ほくそえむ、笑いころげる。笑い飛ばす。笑ってごまかす。あざけりの笑い。苦笑い。照れ笑い。大笑い。笑いには、『つぼみが開く』『果実が熟して皮が裂ける』というような意味もある。ふくらむ心がはじけ出す表情を笑いと呼ぶ」と島センセも書かれておられる。(同書 p.33)
だから孫はかわいいのである。
わかるかな?わかんねぇだろうなぁ。孫を持っていない人には。あ、その前に結婚していないとアカンでっせ。子どもを作ってみないと、孫はできないからだ。当然ですが・・・マジに。
特に、孫がこれからいたずらするぞ!というメッセージは強烈である。
私の書庫の本なんか影も形もなくなる。雑誌なんか置いてあっても、すぐお隠れになる。
一番手のつけられないのが、そうやって困った顔をしているジージの反応を喜んでいるのではないかという疑念である。マイッタな。
いちいちジージの困ったチャンをみて、さ、次は何をやってやろうか、なにをやったらジージはあのすこぶる楽しい困ったチャンをやるのだろうかと狙っているのである。
そして笑っている。
つまり笑いは進化しているのである。
工夫しながら笑いをとっているのだ。
これが人間の赤ちゃんがやる特徴的なことであろう。サルも一緒なのかな?わかんねぇけど。
心配してあっちぶつけたらしょうが無いとか、そっち行ったらケガするよんというジージの杞憂もおもしろいらしい。
なんでも心配させて遊んでいるのである。
どうも、遊ばれているらしい。
しかし、基本的にこっちは育児の責任がない。どうなろうとジジババには関係がない。言葉が遅かろうと、なんだろうとなんにも心配していない。
製造責任がないからである。
子どもの代までである。責任があるのは。
こんな気楽な育児はない。だから、私の娘はちっともジージに好印象がない。ジージに任せていたらバカになると思っているらしいからだ。
そういうおまえは、ワシに育てられたからバーカになったのだなぁと思う。思うケド言わない。言ったら、それこそお仕置きをされてしまうからだ。
幼児にとって、遊びは永遠である。しかも、生きていることそのものである。遊びをしていないと、生きていられないのだろうから。だからサルでも、母親サルはず~っと川あたりで自分の子どもと遊んでいる。
遊びから、いろいろと学んでいくからである。
たとえば、茶碗でももっていろいろと食物をぐるぐるとかき混ぜたりする。あるいはハシを持ってくるくると回すこともある。それは彼らにとって、夢のような楽しい遊びなのである。茶碗や、ハシは美しい妖精が命じているのかもしれないからだ。
それを禁じられると幼児はユメを破られたようになる。「ダメ!」とか「片付けなさい!」とか言われるといじける。哀しそうな表情をする。
そういうことに気がつくのは、幼児が五歳くらいにならないとできない。
しかも、一遍に10個くらいあれしちゃいけない、これやっちゃいけないという禁じ手を使う。もう遅いのである。
禁じ手は、一度に一個だけだ。
あまりにもうるさいと禁止が、禁止にならなくなる。
さ、これくらいにする。
じゃぁねぇ~。
(^_^)ノ””””