書く事のコツを村上春樹がこんなふうに書いている。実に参考になる。
外国語によって外国人に気持ちを上手く伝えるにはどうすりゃぁいいのだと思うことがある。ところがである。そういうことを、かのノーベル賞候補作家村上春樹が書いている。
「やがて哀しき外国語」(講談社文庫)である。ちょっと引用してみよう。(p.179)
① 自分がなにを言いたいのかということをまず自分がはっきりと把握すること。そしてそのポイントを、なるべく早い機会にまず短い言葉で明確にすること。
② 自分がきちんと理解しているシンプルな言葉で語ること。難しい言葉、カッコいい言葉、思わせぶりな言葉は不必要である。
③ 大事な部分はできるだけパラフレーズする(言い換える)こと。ゆっくりと喋ること。できれば簡単な比喩を入れる。
以上である。
以上終わり・・・・?。
それじゃぁ身も蓋もないから、もうちょっと書く。
これは文章書きのコツである。よくまぁ、村上春樹大先生、書いてくださったものである。もっともご自分でも、「これはそのまま〈文章の書き方〉にもなっているな」と、つぶやくように書かれているから然りである。
やはりシンプルをモットーに書いておられたのだ。
私は彼の文体が実にシンプルで、まるで外国語のようだとずっと思ってきた。重々しい文体のそれではない。そう思ってきたが、今回この文庫本を読んで間違いではなかったことになるということで実は喜んでいる。
さらに、書きながらモノを考えていくのだそうだ。これもまた真似をさせていただいている。私も。
書く事によって、記憶がしっかりする部分は確かにある。経験上。これもまた彼に学んだことである。もっとも、こっちは質量ともにお話にならないのではあるが。あたりめぇである。世界の村上春樹である。こっちはただの年金生活をしているだけのジイジである。比べる方がおかしいというものだ。
それと、彼がプリンストン大学に客員研究員で招聘されて、彼の地に住んでいたときのエッセーがこの本である。だから大学人の様子も彼なりに分析して書いている。
なかなかのものである。
プリンストン大学というのは、いわゆるエリート大学である。しかも抜きん出ている。
そういう大学の町である。だから堅苦しいのだそうだ。西海岸の諸州とは違うのだそうだ。息が詰まりそうだとアメリカ人ですら言う事があるそうだ。
それだけ大衆化、平等化から毒されていない大学なのだそうだ。
日本とは違う。日本の大学はもう大衆化、平等化しすぎている。大学進学率も凄いことになっているらしい。しかしである。この大学進学率というのは、まやかしである。世界の大学進学率というのではもっと凄い国家がたくさんあるからだ。ネットでちょっと調べてみても世界にはいろいろな国がある。大学進学率では、以下のとおりとされていた。(世界の大学進学率 国際比較統計・推移 GLOBAL NOTE グローバルノート
グローバルノート - 国際統計・国別統計専門サイト http://www.globalnote.jp/post-1465.html)
1 ギリシャ
2 韓国
3 ベラルーシ
4 フィンランド
5 米国
6 オーストラリア
7 スペイン
8 プエルトリコ
9 スロベニア
10 デンマーク
11 アイスランド
12 オーストリア
13 アルゼンチン
14 トルコ
15 ニュージーランド
16 ウクライナ
17 チリ
18 エストニア
19 ベネズエラ
20 ノルウェー
日本は、41位とされていた。
マスコミによって巷間伝えられるような数値ではない。もっともこれは分析対象の初期値をどうやっているのかによって違ってくることであるから警戒はしなくちゃならない。あまり信用してもいけないだろう。
しかし、こんなものなのである。
大衆化した大学といっても、どっかに間違いがある。教育のスローガンというのと一緒である(こっちについてはまたの機会におおいに書いてみたい問題である・・マジに)。
プリンストン大学とは違って、アメリカの大学は入学しやすくて卒業が難しいと言われる。これもマスコミで言われるものとは違っている。
アメリカの公立二年制のコミュニティ・カレッジというのは確かに入りやすくて、卒業が難しい。高校卒業者なら誰でも入れる。地域に密着した公立学校であり、新規大学進学者の約40%がこれである。税金でまかなわれるために、授業料も安い。ところが、入りやすい分だけ学力がともなっていない。いないから補習授業をやって学力を引き上げている。それをクリアできなければ卒業もできない。したがって、入学者の半数が途中で脱落する。誰でも大学に入学できるかわりに、一定水準まで到達できなければ卒業させない。
教育の最後の段階でもって、教育全体の水準を維持しているわけである。
日本はどうだろうか。
卒業のところでもって水準を維持しているわけではない。しかも、就活というマジックで実質3年間しか学んでいない。さらに、少子化ということでもって大学全入という状態になっている。大学受験における選択を間違えなければという限定つきであるが。
日本の大学は入学後の教育を軽視してきた。入るまでは熾烈である。これは今でもそうだろう。塾業界に片足だけつっこんでいるからよくわかる。そのことだけは。高校生もずいぶんいるからである。
企業も大学に期待をかけてこなかった。自分で鍛えた方が、いわゆる使える人間になるからである。これはよくわかる。だから大学を信用していない。大学の成績も重視してこなかった。当たり前である。大学といっても実態が大幅に違うからだ。つまり簡単に言うと大学間格差ということだ。
よって、教育の質でもって大学を選んでいない。ブランド名だけで選んでいるのではないのか。そうではないのが、私のような高齢生涯学習者であろう。遠隔地では、通学に困るからだ。年とってから、3畳一間のアパート暮らしはきつい。きついどころか、そんなことをしていると死んでしまう。
現役世代に限って言えば、むしろ受験生に迎合した入学者獲得をして競争しているのが日本の大学である。
そうすると生涯学習もちょっと待ってよ~んとなる。
少子化だからワシのようなジイジにも手を伸ばし始めたということなのか。
財政上の問題でもって(もしかしたらそれだけでもって)、リタイアした暇な高齢者を入学させておいて、ぼったくるつもりなのか。そういう可能性もありうる。大学自身の経営改善努力はしないで。
さらに外国人留学生に手を伸ばしているのも、これであろう。有名私学ですら、この傾向があるそうである。特に東洋語学科である。つまり日本語教育と称して、口語のみを主とした文学を指導して、古典系は指導しないで、それでもって学位を取得させる傾向のことである。
ニーズがあればなにをしてもいいというのでは、自滅である。心配しているからである。外国人留学生という点では、学部の時の母校もそうらしい。さらに大学院修士の時の母校もそうらしい。退学した最後の大学院は知らない。なにしろ最後までいなかったからである。母校とは呼べない。三年で中退したからである。
ところがである。
プリンストン大学は違っている。
村上春樹大先生が言われている。
「世間にカネというものがあるんだそうな」という世間ズレした学者先生がたくさんおられるのだと書かれている。これを読んで、いいもんだと思った。そういう財政上とか、メリットとか、経営問題とかから離れたポジュションでもって生きていることが。実に好ましいことである。私にとっては。
ある種の「知的階級性」だと村上春樹大先生は書かれている。なるほど、そうであろう。
日本には、そういう「知的階級性」というものが無くなって久しい。なにしろ、すべてがカネらしいからである。なんでもかんでも財政なんだそうだ。国立大学人文科学系の学部を廃止しようとしているらしいし。つまりカネにならない、就職もできないという点でもって。
どこまで行っても、利益中心主義。
これでいいのかねぇ~。
だまされませんぞ、アタシャ。
生涯学習と最近文科省も言っているが、どうもぼったくりの類義語ではないのかとも十分警戒して学んでいるからである。オレオレ詐欺にだけはあいたくないからである。マジに。
あ、もう3000字をとっくに過ぎているよ~ん。
これくらいにする。
じゃぁねぇ~。
(^_^)ノ””””