アメリカの生涯学習高齢者に学ぶことも多い。純粋に学ぶことだけを追求しているからだ。こんな辞書は使っていないだろうけど。マジに。
邦訳 日葡辞書 大型本 – 1995/11 土井 忠生 (編集, 翻訳), 森田 武 (編集, 翻訳), 長南 実 (編集, 翻訳) 岩波書店
「1603(慶長8)年イエズス会宣教師らが日本布教のため心血を注いで編纂した辞書(長崎で刊行)の全訳.古代語から近世語への過渡期たる室町時代の日本語について,話し言葉を中心に,雅語・俗語・方言・婦人語等を含めて実に約3万2000語を採録し,語義・用例を示すほか,語法・発音にまで説き及び,近代辞書の内容体裁を備えている.キリシタン史料の白眉とされ,国語史研究に不可欠の文献.国語・ロマンス語学者の多年の協力により翻訳.」と、Amazonの紹介にはある。
この本、古本でも高い。38,000円する。新本だと58,000円である。だから買う事ができなかったと書くべきなのだろうが、買った。大学院修士課程(退学した大学院とは別の大学)に在籍していた時代に買っていた。今も、私の書庫にあって、あちこち眺めながら生涯学習に取り組んでいる。楽しいからである。
中世史・中世文学をやりたかったから(挫折したケド)、こういうのは当然持っているべき基本書である。それに、約45年前の学部生時代にキリシタン版(岩波文庫からも出ている)の講義を受けていたからかなり関心があった。それこそ、中世の日本語でもって日常会話をしようというろくでもない試みをしていた。学部時代のクラスメイトたちと。もうミンナ老人になっているんだけど。
特に、私は能楽とか狂言の源流を求めて、あちこちフラフラしてきた。だから、文献的にもこういう辞書がないとさまにならない。
現代文学もいいけど、なんだかアタマの悪い私には、その追究方法についていけない。まるで明治初期のように外国文献を読んで、新しい研究理論を猿まねして論文を書いているのではないのかと疑問に思う事も多々あったからである。文学そのものを追求するよりも、理論研究の方が優先されているのではないかと感じるからである。いくらなんでもそれは如何なものかと思うからだ。
カズオ・イシグロに至っては、研究者の多くが英語でもって論文を書いているから、アタマの悪いアッシにはダメである。そもそもその英語論文が正確に書かれているのかどうかも、怪しい。怪しいというのは、こっちの理解度である。書いた本人の能力のことではない。たとえそう思っても、クチが裂けても言えない。また、言っちゃぁならない。常識である。そんなことは。
しかし、大なり小なり、私も同じようなものである。こんな一般受けしない辞書を使って中世文学を読んできたのだから、人のことは言えない。それを言っちゃぁおしめよ、である。しかも、読むだけではない。カードに整理している。京大式情報カードを愛用してきたからである。文学研究者という方々には必須のアイテムである。私は、文学研究者でもなんでもないから、そんなもんは必要ないと思ってきた。しかし、高校の同級生でまだ現役の大学教授がたくさんいるから、その内の一人に教えてもらったのだ。学び方をである。
だから、友人知人はありがたいものである。
能力に応じて、いろいろと教えてくれるからである。こっちの能力・適性なんて一緒に勉強していたのだから、先刻ご承知であるからだ。
太宰治の「津軽」ではないが、出来の悪い柔道部主将が、教室のゴミ箱にアタマを突っ込んで、同級生のウケを狙っているのと一緒である。
バカは、どこまで行ってもバカである。仕方ないではないか。周囲に秀才が多いと、そういうことでもって逃げ道を作っておかないと精神を病む。病んでいる秀才は数多く、山月記の李徴を持ち出すまでもない。
さらにアメリカの生涯学習高齢者に学ぶことも多い。彼ら・彼女らは、大学に舞い戻ってなにをしているかというと、純粋に学ぶことを楽しんでいるのである。つまり、学位とかライセンスを取りたいということだけが目的では無いと書かれている。先日、拙ブログに紹介させていただいた「定年からの人生 日本とアメリカ」(袖井孝子著)にである。
純粋に楽しむためだけもって、生涯学習に取り組んでおられるのである。それも思い立ったが吉日である。何事も、思い立たないと行動には移せない。行動しなくては、生涯学習もへったくれもない。あーでもない、こーでもないと逡巡していたら、生涯学習は永遠にできない。
今更、若いおにーちゃんとか、ミニスカオネーチャンと一緒に同じ教室でもって勉強なんかできないと思ったら、その時点でもってアウトである。
なにも恥ずかしがるこたぁねぇのである。
私が良い例である。恥はさんざんかいてきたから、もう慣れっこになっている。
そんなことぁどうでもいいことではないか。
クラスメイトが若かろうと、まったく関係がない。それよりも優るのは学ぶことの楽しさである。
年齢も関係がない。自分より若い先生に教えていただいても、楽しみでやっているんだから、結構なことである。結構な身分である。しかも学割がきく。JRですら60歳過ぎて学割定期券で通学していたくらいである。美術館もそうだった。みんな学割。携帯も学割がきく。こんなありがてぇことはないではないか。
わはははっはっははっははである。
さ、けふも「お勉強!」から始まる一日である。
楽しい、楽しい。
それに、教育関係の論文も書かなくちゃならない。誰に頼まれたわけでもないのに、ご苦労さまなことである。
好きだからである。
じゃぁねぇ~。
(^_^)ノ””””