ソーシャルネットワークなんとかって、あまり信用しないほうがいい
FacebookやTwitterというものを使いこなして、ビジネスに役立てているおじさんたちが多い。若者たちは言わずもがなである。こういうツールを使いこなせないと、たちまちのうちに落後者のように言われる。
しかし、果たしてほんとうにそうなのかと疑問に思う。
FacebookやTwitterに期待しすぎだという面もあるのではないのか。
あまりにもそういうのが流行していると、ひねくれジイジの私なんか真逆から考えてしまう。
なぜか。
そういうのを使って役立てようとしていないからだ。それにスキルがない。マスターしようとも思わない。でも、やっている。FacebookやTwitterをである。下手の横好きなんとやらというやつである。
ブログだけではないのだ。なぜなら新しいものが好きだからである。なんでもそうだ。新しいものはいいもんじゃ。女房と畳はとくに・・・・おっと、こんなことを書いてはいかんな(^0^)。
でも私は、FacebookやTwitterなんてどうせ大したことはないと高をくくっている。
確定されていないからだ。立ち位置が。すくなくとも絶対ではない。パーソナル・コンピュータの初期の段階ではパソコン通信というのが流行っていて、通信料だけでもかなりの料金を請求されたことがある。その時も、こんなもん、今に流行から外れていくと思っていた。案の定そうなった。
今、インターネットが流行しているが、これもまたどうなるかわかったもんじゃないと思っている。
それでいいのだろう。それで。
だから、パナソニックのテレビのあまりにコンピュータ化した性能は気持ちが悪くなるほどである。テレビなのかコンピュータなのかわからなくなっている。我が家にあるから余計始末に負えない。なんでもできるテレビなのである。Webも、メールも、youtubeもできる。家の中にWi-Fiがあるからだ。どうもこのパナソニックという会社は、会社の方針としてそういう方針を持っているらしい。白物家電とIT化というやつである。冷蔵庫の開け閉めの回数をカウントするのも技術開発で可能としたし。
以前は、性能とか耐久性があるからパナソニックが好きだったのだが、なんだかワケがわからなくなっている。
創業者の松下幸之助さんが好きだから、パナソニックという会社の製品を買っていたきらいがある。しかも親子二代にわたってである。亡父が松下幸之助さんをこよなく愛し、尊敬していたからである。
実家に、松下幸之助さんの書いた本がいくらでもあったからである。
シベリア抑留体験をさせられた亡父にとって、松下幸之助さんはある意味ロマンであったのであろう。成功者であったし。
亡父の意図は今になってよくわかる。
シベリア抑留体験でもって、ソ連時代の差別とか弾圧を体験してきたからこそ、その反動でもって戦後バシャウマのような働き方をしていったのである。だから必然的に身体を壊してしまった。
六〇歳ちょうどであの世に行ってしまったのである。早かった。なんにもいいことの無い人生だったなと思う。シベリアでの強制労働や収容所でもって、体験したことは当然ながらロシア人不信につながっていった。
だから、もっと根本的なところでもって、人間理解ということを考えていたのが亡父であったと思う。なぜか。戦争というものは、平気で他人を殺すことができたからだ。シベリアでは多くの日本人捕虜が死んで行かざるを得なかった。餓死も含めて。そういう過酷な死生観というのを私に語ってくれた。ある意味、哀しさがあった。根本のところに。
つまり、表面的なFacebookやTwitterでのつながりでもって、真実と考えてはならないということである。
「いいね!」とかやりゃぁ友達ができるっていうような軽薄な人間関係でもって考えちゃいけないのだ。
むろん炎上というのもあることは知っている。軽薄という意味ではまったく反対の意味で。だからと言ってFacebookやTwitterを過信しているのもいかがなものかと思う。
FacebookやTwitterのようなテクノロジーだけで世の中を変革することはできない。むろんそれを研究して、日々改善することは非常に尊敬に値する。そういうことが可能な方の能力というのは、なかなか他人には無い能力であるからだ。
世の中を変化させていくのは、テクノロジーだけではない。
もっと複合的に構成されている要素である。単純化しようとするとどこかで間違う。無理がある。なんでもかんでも単純化することは、システムを破壊する。
FacebookやTwitterというのは、「人間関係単純化」の極みである。直接会わなくてもいいからだ。軽くて、ふわふわと生きている人間にとってこれほど居心地のよいツールはないだろうから。
トラブルと言っても炎上するくらいしかない。
こういうツールを使って、会社を脅したり、人をだましたりしたらそれは犯罪になる。だからそんなことをやっちゃいけない。そういうことを除いても、軽みの方が強いインパクトを持つ。まるでマンガに出てきそうな世界である。また例にだして悪いが、村上春樹のような世界である。ビッグコミックというマンガ雑誌に出てきそうな荒唐無稽のことがたくさん書いてるのが、彼の小説であるからだ。
つまりおおいに軽いのである。
なにも悪いとは言っていない。軽いから、時間つぶしにはまったくいい。飛行機の中で退屈しのぎに読むとか、風呂の中でも読む。あるいはトイレの中でも読む。便秘になって苦しんでいるときなんぞ、実にいいもんである(^0^)。なんでか。身体が軽くなってくるからだ。なんだ、こんな程度でいいんだと思ってしまうからである。深刻ぶって生きていたって、こんな風のようにふわりふわりと漂うように生きていける若いもんが描かれているからだ。一見、教養のあるようなフリをしているようでその実中身のなんにも無い人間共を描いたら、村上春樹の右に出るものはない。そう思うから読んでいるのである。
村上春樹ワールドに出てくる愛だの、恋だの、女性遍歴だのという荒唐無稽の物語というのは、真っ赤な嘘だからこそありがたいものなのである。楽しめるではないか。真っ赤な嘘だからだ。構成が実に巧みであるからだ。
もっとも、こんなことばかり書いているから、私自身は、大学院に通学して生涯学習を気取ってみても、無意味だったわけだ。だから、なんにもマスターできなかったのだなと(_ _ )/ハンセイしているのだ。
すくなくとも、私にはテクノロジーのかけらもないからだ。さらに文学そのものの理解もおぼつかなかった。マジに。これじゃぁ学位なんてとれるわけもない。
役に立たない、ジイジでしかなかったのだから。ある意味、見抜かれていたんだよ~ん。わはははっははっははは。
昨日は、Gymに行く暇もないほど多忙であった。
あちこちと吹っ飛んで歩いていた。いろんな方と会い、話をしていた。昼食なんかものすごい料理を自腹でいただきながら。教会の見えるレストランで。
似合わねぇなぁと言われるだろうけど。
さ、今日も出かける。
非常勤講師としてのお仕事である。
そうなのだ。夏休みもないまじめな大学生たちのために行ってくるのである。
私の試験があるからである。かわいそうに。これでやっと大学生たちは夏休みがくるのだろう。
すばらしき若者たちである。
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