生涯学習は、どうやって生まれたのかね
(千葉市の生涯学習センター)
・生涯学習は教育改革論議のなれの果てに登場してきたのか?
・教育改革はホントに改革であったのか?
・現場の声を無視して教育はあり得るのか?
1 生涯学習は教育改革論議のなれの果てに登場してきたのか?
拙ブログは生涯学習日記を標榜している。それなら、なにも生涯学習そのものの意義を考えることはないだろうと言われることがある。果たしてそうだろうかと思う。ただ単に乗せられているだけではないかとも考えている。ま、考えることはいい。いいから、またまた余計なことばかり考えてしまう。こういう性癖なのだから、許されよ。
そもそも生涯学習なんて言われ始めたのは、文科省が大きく方針転換をしたからである。
学歴社会の弊害が論じられて、それを否定して、教育改革の柱として登場したのが生涯学習社会である。臨時教育審議会がかつて唱えたものである。昭和56年の中央教育審議会答申「生涯教育について」より論議が始まったとすれば、相当長い期間論じられてきたものである。
しかし、今でも学歴社会がそんなに悪かったのかという疑問がある。
理想社会の実現ということから学歴社会を否定して、理想の社会実現を目指したというのなら、現在の大学入試のあり方をどう説明するのだろうか。
現在の大学入学者は、40%以上が受験をしていない。大学の75%は私立大学である。つまり全大学の3/4が私立大学ということになる。AO入試とか、社会人入学、外国人留学生の受け入れというのが流行しているというのは、私立大学の主として経営上の理由から行われている。
教育改革は、学ぶ側の主体性を重視してきた。「生きる力」とか「新しい学力観」とか提唱されてきた。そして礼賛されてきた。なるほど、それはそれで理想論としてはすばらしいものがある。知識経済にふさわしい自律型人材を育成しようとしているわけである。
ナレッジワーカーというわけである。
具体的には、楽天の三木谷浩文社長とか、SoftBankの孫正義社長がいい例である。
しかしである。
本当にそうなのかと思う。特殊な例が物語るように、成功者はごく少数である。それを全部の子どもたちに当てはめて、だからよいものであるというのはいかがなものか。一般化もほどほどにしないといけない。ごく少数の例が、真実とは限らないからである。そういう可能性もあるだろうけど。
日本の教育はどこへ向かおうとしているのか。そう思うからである。そういう自律型の人材というのは、本当に私たちが求めているものであろうか。こういう教育の中に影や闇は無いのかとふと考えることがあるからである。
教育改革というものから生涯学習が登場してきたのだったら、私たちはもっと考えるべきことがたくさんある。ブームだから、国家ならびに都道府県が生涯学習センターみたいなものを作っているから、真実なのだろうと簡単に思わない方がいい。もしかしたら、もしかして「乗せられている」可能性も否定できないからである。
さらに、池田勇人内閣から言われ始めた「人的資本」という用語も、ちょっといかがわしい。人間が、資本的な財産にカウントされているからである。
そりゃぁ戦後日本の発展が、経済によってなされてきたことは認める。それがなかったら、現在の日本は無い。中国が良い例である。経済が発展してきたから大きな顔をしていられる。政治と経済が密接に結びついているからこそである。
しかし、「人的資本」とはよくもまぁ云いも云ったりである。資本なんだ、人間って。資本ということは、人格もなにも認めないっていうわけだ。働く機械でしかないっちゅうことだ。働き蜂よりも劣るですな。
よくわかんねぇけど。
2 教育改革はホントに改革であったのか?
教育改革は日本の社会の現実をムシしていたのではないのかとふと思う事がある。日本は、表面的には平等社会であるからだ。しかも、努力すればナントカなる社会である。だから大いに勉強せよ、良い大学、安定した一流会社に入って生活をせよと言われる。それもありであろう。
しかし、就職ではそうであっても、こと教育に限っていえば、学ぶ事ができない社会層を考慮の内に入れていないのではないのかとも思う。
つまり、「勉強したくない」というレベルの子どもたちが考慮の中に入っていないのではないのか。
さらにいえば、学力上位グループと下位グループのことを公言できないまま教育が語られてきたのではないのか。
能力別学級というのが戦後しばらくタブーとされてきたというのも、こういう教育に対する理想論が背景にあるからである。
そもそも最初に学歴社会の否定があったからこそ、こうなったのではないのか。
学歴社会というのは、「完結社会」である。最終学歴という欄が履歴書に今でもあるということが、それを物語る。これもおかしな風習である。生涯学習を標榜するのならば、最終学歴というのはあり得ないではないか。なにをもって最終学歴とするのか。
私なんかどれが最終学歴なのかわからないではないか。
しかも、これからまだまだ学ぶつもりであるからだ。
だったら、履歴書の書式を変えなくてはならんと思うのだが。いかがか。「現在学んでいること」とか「今、生涯学習で取り組んでいること」とか書かなくちゃアカンと思うのだ。
私の名刺のようにである(^0^)。
3 現場の声を無視して教育はあり得るのか?
最後にする。
ノルマの2000字を超えているので。
「現場の声を無視して教育はあり得るのか?」という疑問である。多くの流行・廃りが教育界にはあった。それでも現場の教師たちは、「不易と流行」ととらえて、地道に実践を積み重ねてきた。そういう諦念みたいなものが、むしろ日本の教育を支えてきたのだと思ってきた。事実である。
確かに時々異常な事件を起こして、騒がれる教師たちもいる。だからと言って全部が全部腐ったリンゴというわけではない。一部分の現象を捉えて、それでもって一般化するのはいかがなものかと思うからである。
現場の教師たちの大部分はマジメに日々の実践を行っているのである。これこそが、教育立国を支えてきた最大の理由である。こういう声を誰かがあげなければならない。そう思う。黙っていたらいけない。だからこそ、退役軍人ではないが、退職したからこそ応援したいのである。現場を。現役の先生方を。
したがって、私は学校への理不尽な市民参加は、公共につながるのかという疑問を持っているのである。学校への市民参加というのは、根底に「不信」がある。学校不信、教師不信である。しかしである。最初から、誰も信用しないというスタイルでは、すべてが破壊されてしまう。
市民参加をすることによって、教育に対する国家の統制を弱めて、民主的な学校運営が可能となるという幻想を持っている方々が今でもいる。そんなことはない。こういう方々は、自分たちのコミュニティだけの世界で生きている。自分たちの都合のいい論理でもって、国家から、あるいは公共から学校を奪取しようとしているからである。目的はなにか。ある意味、自分たちのコミュニティをつくりたいからである。思うがママにしたいというわけである。学校のみならず、社会も国家もである。根底にそういう変革(革命と言ってもいい)の意図が透けて見えるからである。
用心するにこしたことはない。
現場を応援しているからである。
☆
もうそろそろ3000字に近くなっている。
これくらいにします。
今日も雨模様である。
運動とお勉強をする。
それでは・・・(^_^)ノ””””