東京国際文芸フェスティバル2014 「いま、アジアで『文学する』こと」
谷崎潤一郎全集 - 第十九巻 単行本 – 2015/6/10 谷崎 潤一郎 (著)
昨日Gymの帰りに、またまた病気が出てきた。古本チェーンに行ってしまった。Gymに早く行ったので、帰りがそれだけ早くなった。トレーナーに、「やる気満々ですね」と激賞された。「いやぁ~、どうせ家にいたってやることがねぇから」と返して、お互いに大笑いをしていた。
それから実は一太郎という日本語ワープロのバージョンアップ版を買おうと思って大型電気店に行ったのである。結局買わなかったけど。一年毎にバージョンアップしているが、大幅な変更はなかったから。それだけである。
それに、縦書きとのときだけ使っているのだから、ま、これでもいいかとなった。大幅に性能・機能が改良されたら買おうと思った。なにしろ年金生活者である。出費はできるだけ抑制するしかないからだ。マジに。
それにしても暇である。ホントにやることがない。まったくない。現役時代のモーレツぶりが嘘のようである。もっともあれか。仕事していた時代だって、そんなに必要とされていたわけでもないからなぁ~。なにか起きたら全責任をとるのが仕事みたいなものであったし。それが存在価値を決定していたのだろうから。
ま、そういう人間もいないと組織が成り立たないから仕方がないと言えば言える。
それで結局買ったのが、大型電気店の前にある古本チェーンで「細雪」であった。
谷崎潤一郎である。
若い時に一度読んでみたことがあった。まだ十代であった。確か、上野駅からの夜行列車で奥州に帰るときであった。薄くらい客車の中で読んでみたのだ。
つまらなかった。こんなもんを書いてなんになるのだと思った。
およそ、ルンペン苦学生の私には縁遠い世界ではないかと思った。なにしろ生活レベルが違いすぎる。こんな世界の女性たちとは永遠にご縁がないだろうし(今もないけど)、およそ意味がないと思った。
以来、谷崎潤一郎を読んだ事がない。ある意味、軽蔑していた。ブルジョワの手慰みでしかないと断定していた。
でも買った。そして読み始めている。
なぜか。
こっちもジイジになって考え方が変化したのかもしれない。そもそも昔から、AかBかという二者択一が嫌いだったから、複雑系に目が向くようになったからかもしれない。
それでいいのだろう。
審美的な考え方のもとに、こうした作品が書かれてくるということを味わうことができるようになってきたのかもしれない。
村上春樹だって、ようやく味わって読むことができるようになったのだし。もっともこれは「高速繰り返し学習」を退職してからするようになったので可能となったのであるが。
昨日書いてみた教育論議のことでもそうだ。二者択一ではなくなったということをしみじみ実感した。好きか嫌いかというのは、昔からない。好きだから読む、やるというのは確かにある。しかし、嫌いだから読まない、やらない、相手にしないというのは私にはない。
人生万般複雑であるからである。世の中、そうそうスパっと割り切れるものではない。いろいろな要素が複雑にからまっている。
だから考えもしないで、結論から言えという上司とか友人がいたら、警戒すべきである。思いつきで言っている可能性が十分あるからである。
そんなのとつきあっていたら、こっちの身がもたない。
もしも、そういう輩が株式投資を勧めてきたら断絶したほうがよろしい。思いつきでもって、他人に投資を勧めて、もしも投資対象の会社が倒産したらそれこそ目も当てられない。
思いつきでもってある種のスローガンを打ち立てて、行動に移してもならない。ある種の政治行動も、プロパガンダのもとで意図的に誘導されている可能性だってあるからだ。
常にアメリカは、あるいはロシアはなにを考えているのかということに関心をむけていないと政治は危ない。企みというか、謀略というか、そういう前提のもとに世界は動いている。
学問の世界だけが花園なのである。カネも無関心であると宣言して堂々と生きておられるのが、大学の先生方である。そしてそこに参入していこうとしている方々を厳しいルール(自分たちの世界でしか通用しないルール)でもって、抑制している。
だから花園なのである。
私は、そういう世界とは今までも無縁であったし、単なる生涯学習者である。学ぶだけである。それだけ。
谷崎潤一郎も花園の住人である。
女性のことを書いたら右に出るものはないだろう。しかし、それだけとは言わないが、彼が書く事の意味はなんだったろうと思う。
ある意味、渡辺淳一と共通するのかねぇ~。小説も、映画もつまんなかったからである。よくまぁあんなのに主演した女優がいたもんだと思うだけである。そんなに恋愛とか、不倫とか、二人で一緒にあの世に行ってなにか意味があるのかねぇとも思うし。
AかBかという判断とか、始めに結論ありきという生活スタイルをしていると実に危ない。それこそ美的感覚だけで生きていっていいのかねと思うからである。
美は、自分の側に引き寄せてはならない。あくまで遠くに置いておいて眺めるだけにしておいた方がよろしいようである。
危険なことは遠ざけることである。
ふうううううううむ。
これから私は、古文書講座に行く。まったく危険なことがない。行き帰りの運転だけである。しかも教えていただく身分であるから、気楽なものである。
楽しみでもある。
カラオケとか、ミニスカおバカキャラのオネーチャンがいる酒場にも出入りしない。まったくしない。だからこれほど安全で、人畜無害なジイジもいなのである。
わはははっははははっっははははである。
そして夜は、これまた楽しみにしている中国語講座である。ビデオを撮って、繰り返して学習するつもりである。
モノにならなくてもいいのである。
楽しみだからである。
じゃぁね~。
(^_^)ノ””””
欧米の支配勢力は、戦後日本の力を削ぐ為、「宗教は悪」という洗脳をした。キリスト教は支配の為の宗教だが、日本の家庭には仏壇や神棚がある為、布教しにくい。その為にキリスト教の布教ではなく「宗教は悪」という概念を広めて洗脳したのである。 pic.twitter.com/0qb0lfnj9E
優れた芸術、優れた文学、優れた音楽…これに触れて、触れて、触れぬくことによって「質」の知覚が生まれます。「質」と「質」との微妙な差異を感じ分ける力も、人間の中に目覚めさせ、磨き上げることができます。 『エンデと語る』
日本人は【宗教は洗脳するもので悪】と洗脳されているが、欧米の支配勢力は宗教を強烈に信仰している。宗教の力を熟知しているが故に、民衆を支配する為のキリスト教を創りだした。日本は戦争で手強かった為、宗教は悪という洗脳を仕掛けられた。 pic.twitter.com/IfZF5cpbS7
Gymの後に、大型電気店に行ったが、結局一太郎2015は買わなかった。毎年出るようだし。バージョンアップ版が。それに縦書き専門だからなぁ。ワードの論文形式には、エディターを使って書いているし。ま、いい勉強になったよん。
この年になって、「細雪」を買ってきた。古本チェーンからである。谷崎潤一郎である。なにかの本に、定年後は谷崎潤一郎でもじっくり読むべしと書いてあったのを思い出したから。そういえば、彼の小説は若いときはあまりおもしろくなかったなぁ。今の私なら理解できるかねぇ~。ジイジになったから。
村上春樹もそうか。彼とあまり変わらないから。年齢が。こっちは、彼のような人生を送っていないから。最近、ようやくわかりつつあるけど。拒否していたんだねぇ~と思う。モテル男のようだったから。反発感じていたんでしょう・・おそらく。私は。
しかし、暇じゃなぁ~。さっき、雀を追っ払っていた。暇すぎて。さ、これから夕方の入浴でしゅ~。風呂入りながらナニを読もうかね?
#興福寺 仏頭が奈良博へお出かけしましたので、その間は長和の薬師如来が二年ぶりに登場。
国宝館にて拝観いただけます。 pic.twitter.com/dktYtYhbJw
寝るなら寝なさいよ。寝床に何しに行くんだ。考えに行くんじゃなかろうが。あそこは考えごとは無用のところだ。一日じゅう、昼の間に消耗したところのエネルギーを、一夜の睡眠、夢ゆたけく眠ったときに、また蘇る、盛り返る力をうけるところだ。
柳田国男が祖霊送りのもっとも古いかたちを残すと称えた、長野県下伊那郡阿南町の「新野の盆踊り」。
祭の最後、精霊を祀る切り子灯籠を、盆踊りが終わるのを惜しむ踊り子の群れがはばむ。 pic.twitter.com/fhxjITP33Z
確かに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場跡の近くに住む人達より、良い服装はしていました。お金も余計に稼ぎましたし、使うのも余計です。けれど、彼らは、不機嫌な、くたびれた、怒りっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。 『モモ』
東光山大乗院本覚寺鬼子母神像:安産育児を司る法華経護持の神。元は幼児を食う悪女だったが、仏に自分の末子を隠されて親の心を知り、仏教に帰依した。当寺は加藤清正の側室・本覚院月心日円の菩提を弔うため創建されたが、お家断絶後は一時衰退した。 pic.twitter.com/itM5AmOcHG
【内的営力】いわゆる「地殻変動」って、今言った造山運動と造陸運動をまとめて呼ぶものなの。特に造山運動は、地層の褶曲や断層形成、地下深部での岩石の形成などを伴うわ。火山岩や深成岩の形成……となると中学理科の知識だから、知ってる人も多いかしら?
なぜ教育論争は不毛なのか―学力論争を超えて (中公新書ラクレ88) 新書 – 2003/5/10
苅谷 剛彦 (著)
「不毛」だと・・・・まるで拙ブログのことを... goo.gl/IHDy3N
【奈良大仏焼失の真実】言い伝えで戦国時代に奈良大仏に放火をしたのは松永久秀であるとされているが、資料によると戦の最中の不慮の失火であったという。久秀は二度信長に謀反をし、将軍足利義輝をも暗殺したために印象論で放火したとされがちである。 pic.twitter.com/vNxee9db9j
アジア人は自分の身体の中に、それほどしっかり座っていない。すべてはもっと通過性がある。もっと、さらに、そう、柔らかいというより、もっと透き通っているのです 『ものがたりの余白』
【Meadow Ridge 小学校】
学校は8月31日をもって再開する
抵抗は無益だ
お前たちは教育される
pic.twitter.com/zTapmGBCts
「この国が再生する礎の一助にと願って編んだ『テキスト』がようやく完成した」手嶋龍一氏。『インテリジェンスの最強テキスト』手嶋龍一・佐藤優著 9月上旬発売予定です。bit.ly/1TjBumn
【図形の取りうる範囲】
図形で、辺とかの取りうる範囲を聞かれた時は、大体の場合
①何らかの部分を変数にする
②何らかの部分と、与えられた変数を含む図形に着目
③②の図形で成り立つ式を考える
④③の式において、①の変数が存在する範囲を考える
三平方→二次関数のパターンが多いね。
今日ではもはや一国の経済などというものは存在しない。今、三分節構造の核心に迫ろうとするなら、国際規模で考える必要がある。それを思うと、全世界の経済を、あれほどユニークな観点で変えていくのは、もう間に合わないという気もします。 『エンデと語る』
僕は「原子力発電の技術をこの先にいくら展開しようと思っても、五次方程式が解けないのと同じように不可能である」ということを、アーベルとガロアがしたように、みんなに示したいと思うんです。そしてその瞬間にこそ新しい科学の地平が拡がっていくのだと思います。~『哲学の自然』
再度言っておくが、救世主(イエス)の型の中に狂信家というイメージを持ち込むことには、私は反対である。ルナンが使っている「命令的」という一語だけでも、既にこの型のぶち壊しだ。-反キリスト-
「過去に可能で、実行したこと」は、couldじゃなくてwas able to doよ。couldは実行したか分からないの。気をつけましょう。仮定ばっかりの人生はつまらないじゃない?
誰も他人のやり方を真似すべきではない。なぜなら、真似をすれば自然の子供ではなく、自然の孫でしかない。我々には自然の形態がたくさん与えられているのだから、直接自然に触れることが大事だ。
宝円寺仁王像:宝円寺は1583年、加賀藩祖・前田利家が創建した、前田家代々の菩提寺。明治時代に火災に逢ったが、焼け残った仁王尊一対は修復された。利家は豊臣政権の五大老の一人で、秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀藩百万石の礎を築いた。 pic.twitter.com/rNk8JyXNwU
『於母影』は森鴎外、小金井喜美子、落合直文らによって訳された訳詩集です。『新体詩抄』は七五調のものであったのに対し、『於母影』は原詩の形式や内容の差によって、四音、八音等の音節を組みあわせ、この後の詩の形式に大きな影響を与えました。
【砂漠の成因】④卓越風の風下地域である、について。恒常風の風上に高山を持つような地域では、山の向こう側で風に含まれる水分が全て降水になってしまうため、風下地域では年中乾燥し、砂漠となるわ。例としては、南米アルゼンチンの「パタゴニア」が挙げられるわね。
「弱肉強食」を「□肉□食」の穴埋めで出題すると「焼肉定食」にされるから「弱□強□」にしてドヤった教師に「弱中強切」でまさかの扇風機にした生徒に惜しみない賞賛を送りたい……。
一本うどんは馬鹿にはしない(つか食べてみたい)けど、「こいつどうしてくれようか」って思わざるを得ないビジュアルですよね。 blog.animeshi.net/archives/51349… pic.twitter.com/65ws21b2Ea
古代では、国家的事変が起きたときや起きそうなとき、日本中の名のある神様にその解決や予防を祈願する「名神祭」という神事がありました。その記録に載っている「名のある神様」と推定されている神社を「名神大社」と呼ぶことがあります。
ヒトのからだに多く存在している11種類の元素を人体必須常用元素というよ。
「チョンプス喧嘩すな」(C,H,O,N,P,S,K,Ca,Na)っていう覚え方があるんだ。ClとMgがあぶれてしまうけれど……。
うーん……むぐっと口をふさがれたり、こらー!と怒ったりすればいい、かな?