オタクを気取って、「お勉強!」といくか
「おたく」の精神史 一九八〇年代論 新書 – 2004/2/21 大塚 英志 (著) 講談社現代新書
今日はこれ!
例によって、Amazonの書評から引用してみよう。↓(ちなみにこの本は1円でAmazonに売っている)
「90年代に入って起きた事件や、そこで問題にされる事柄、あるいはネットや携帯の影響によってもたらされているといわれる新しい問題、それらはぼくにとってすでにいつか見て、あるいは語られたもののように思われた」(著者)80年代論が盛んな現在、「おたく」の中心的論客が「おたく」と「新人類」の闘争から始まって「90年代以降の事象のなかの80年代的なもの」の考察まで現代日本社会の起原を探る試み。
以上である。
なんだか複雑怪奇でよくわからない書き方である。こういう書き方をするから、書籍離れが生じる。もっとシンプルに書けないものかと思う。
要するに、この本は、オタクを扱っている本である。それだけである。
と、こう書けばそれでもって、自称・他称「オタク族」は納得する。なぜか。オタクは、オタクであることを自認しているからである。後悔はない。そんなの相対評価でもって自己を認識しているからというだけであって、なんら恥じることはないからだ。
オタクの代表選手が、学者センセや研究者である。学問の世界では。むろん、運動の世界にもゴマンといる。優秀なアスリートはたいていそうだ。優秀であればあるほど、オタクである。オタクでなければ、頭角を現すことはできないからだ。
私ですら、柔道の一本背負いの「打ち込み」というものを、早朝に起きて東京下町の公園の樹に黒帯を巻き付けて毎日1000本やっていた。新聞配達のかたわらである。朝刊が終わってからであった。もっとも、私の場合は、他のすべての分野と同じで、オタクであっても頭角を現すこたぁできなかったけどねぇ~(^0^)。
ビジネスマンだってそうだ。優秀なビジネスマンもウラにオタクの傾向を隠し持っている。だから相対主義のもと、他人を蹴落としてまで出世出来るのだろうし、能力を保持できるわけである。
受験だってそうだ。オタクそのものである。また、オタクでないと合格できないだろう。優秀な生徒ほどそうだ。私は、その反対側にいたから、優秀でない生徒の気持ちがよくわかる。わかるから、田舎教師になったのである。そもそもエリートに教師なんか要らない。自分で勉強できるからである。むしろエリートは、教師を軽蔑しているんではなかろうかと思うからだ。教師を必要としているのは、エリートではない方の、私のような落ちこぼれ組である。これは間違いない。私もまた落ちこぼれであったからこそ,多くの先生方に救っていただいたからである。
しかし、普通の高校生ならこんなきつい受験勉強という試練に耐えられる若者はいないはずである。たいていは、どっかでずっこける。ずっこけた挙げ句に、苦しみ、悩み、仕方なく妥協して自分の進路結果を受け入れる。しかし、勝ち残った生徒は、それからも永遠にオタクそのものの人生を送っていく。
この傾向は否定できないことであろう。
ご苦労様なことである。その結果が、全員「生まれて、老いて、病気になって、死んじゃう」という「生老病死」の人生を生きていくだけなのである。勝ち残っても、敗退してもである。結果はミンナ平等なのである。
だから努力しないでもいいとは言っていない。
逆である。結果はミンナ平等なんだから、そして一時の成績とかなんとかで悩むことはないと言っているのである。結果が平等であるのなら、それまで、つまり死ぬまで大いに幸せでありたいもんである。だから努力すべきであるとジイジとしては思っているからだ。
時間が限定されているからこそ、その時間帯を意味あるものとして過ごすべきであるということである。これは若い時にはわからなかった。時間は永遠にあると感じていた。まさか、オレがジイジとなって、アタマも禿げて、腰も曲がって、ヨイヨイと歩くようになるとは誰が想像したであろうか。マジに。
紅顔の美少年もジイジとなるのである。誰だってそうなのである。
美女もまた、老婆になるのである。間違いない。かつて美女だったなぁと遠くから眺めていた方も、三年ぶりに会ったらその劣化に驚いたなんてこたぁいくらでも経験しているからだ。かつておバカキャラで、ミニスカなんかはいていて、世間を騒がしていた方ほど変化というか劣化というか、その手の現象は激しいもんである。中身が充実してきたというのなら話はわかる。そうでなかったから、こっちが驚くのである。
男は逆のパターンがある。つまり、ガキのころにどうしようも無い不良で問題行動ばかりやっていたのが、大人になってまともに仕事をしている場合があるからである。
例をあげよう。
私の中学校(母校)は、全国紙にも出たほどのチョー問題中学校(バカ中学ともいう)であったから、よーくわかるのである。二歳上の先輩たちにロクなのがいなかった。刃渡り30センチくらいのドスを中学生が振り回していたのだ。学校の隣の川での喧嘩なんぞ日常茶飯事であった。不良グループは応援団がその構成員であったから(私も応援団に所属していた=私は不良ではなかったが、マジに)、しかも、総番長が私の母親と親友の女性の子であった。この先輩、アタマは良かったのだが、旧制師範学校出身の母親に反発して、自ら進んで不良になってしまったのだ。
それに私と同い年の弟がすこぶる優秀であった。弟の方とは、小学校が同級生であったが、彼は中学校は国立中学校に行った。山形大学附属中学である。つまり忌避したというわけである。町立の中学校に行ったら、なにをされるかわかならないからだ。弟の方とは、小学校時代に一緒に学習塾に通っていたから仲良しであった。よくできた弟であった。オタクと呼ばれるほどよくできた。
あるとき、塾の帰りに一緒に歩いていたら、「と~ま君よ、オレ、附属中学校に行くから」と告白された。そのときは、あああ奴は逃げたと思った。彼もまた大いなる学校秀才オタクであった。附属中学から、超進学高校に進み、将来をおおいに期待されていたのだが、大学進学で失敗した。誰しもそう思ったのであるが、当然そういうエリートコースに行った以上、仙台の旧制帝国大学に行って将来永久にエリートとして生きていくのだろうと思っていた。そしたらずっこけた。それ以上は書かない。悪いから。
思うに、勉強オタクであっても、私と違って不良どもの先輩たちに鍛えられていなかったのが彼には致命的であったのである。逃げたからだ。
私は、そういう不良どもの先輩たちに殴られながら、ナミダも見せず、さりとてあまり関わりもせずに生きる力を身につけていった。喝上げに行けと言われたこともなかったし、やったこともなかった。総番長と昔からのおつきあいがあったから、特別扱いをされていたのだった。バカな下っ端の先輩にグーパンチでやられたことはあったけど。今、思えば。なにしろ応援団(不良の集まりでもあった)である。硬派の集まりである。
オタクになるほど勉強がよくできたから(あるいはできるから)と言って安心していると、ロクなことはない。むしろ不良の方がたくましく生きている。むろんドロップアウトした方が圧倒的に多い。多いが、中途半端にエリートぶっているとおかしな人生を歩んでいるのも数多いからである。それを学んだ。なにをやるにしても、オタクと言われるくらい実践をすればいいのだ。(ムニャムニャ・・・)
そういう限定つきの話である。
?
あれ・・・もう3,000字近い。
もっともこのブログは書評ブログではないから、好きなことを書いているつもりである。しかし、これじゃあまりに酷い。だから元に戻る。
オタクである。
この本はあまりにも守備範囲が広く、絞りこんでいない。新書のわりにはとても分厚い。しかし、私は気に入っている。あまりも気に入って、いろいろと授業で活用させてもらった本でもある。
あ、とうとう3,000字を超えた。
そろそろ終わりにする。
最後に書いておきたい。
この本、一度捨てた本でもある。それが、古本チェーンで105円で売っていたのだ。数年前に買った。値段からしておわかりだろうが、消費税アップの前である。
買い戻しておいてよかった。
今日は、昨日おいしいフランス料理を食ったから、体重が増えているかと思った。そしたら、なんと800グラム減であった。
おかずがおいしくて、ご飯が出てこなかったからだ。それにアルコールも呑まなかった。あたり前である。アルコールを呑むと、また病院に舞い戻りである。もうこりごりであるからだ。アルコールは古女房ドノに呑んでもらった。それに息子の嫁さんにも。私と息子は呑まなかった。運転手だったからである。たまには、こういうのもいいもんである。新旧の女房ドノを大事にせなアカンですぜ。まったく、まったく。
さ、今日はgymが休館である。
オタクを気取って、「お勉強!」といくか・・・わははははっはははっはははは。
(^_^)ノ””””