平成29年1月2日(月)の投稿とリンクしています。
ま、こんなもんですが。
お笑いくださいませ。
九十九里浜からの初日の出 2017年
平成29年1月2日(月)の投稿とリンクしています。
ま、こんなもんですが。
お笑いくださいませ。
九十九里浜からの初日の出 2017年
初日の出でも、元日の神社でもボキのことはまったく祈っていなかったのである(^0^)
おだやかな元旦であった。元日はこうでなくちゃいけない。天候ではない。元日の朝を元旦というのだそうだが、ボキは、九十九里浜から眺められる初日の出を見ようとして、浜までクルマで出かけた。
そしたら、なんとクルマがたくさんいた。自転車で来る方々もおられた。
で、ボキは岬の突端から見ようとして、方向を変えた。
残念ながらこっちも混んでいた。だから、田んぼの真ん中から見られる場所にクルマを移動して待っていたのである。初日の出を。
しばらくして新年の初日の出が堂々と出てきた。まさにお出ましになった。すばらしいものである。恥ずかしさもない。むろんない。堂々たるものである。ドーダァ!というようなものである。
ちっぽけなボキ如き・・・・・恥ずかしくなってしまった。なにをクヨクヨ川端柳である。つまらない存在である人間という名のほ乳動物である。笑っているしかない。
そして思わずボキのクチから出てきたのが、「南無遍昭・・・・」という空海さんの宗派で唱える言葉であった。さすが、なんでも教のボキである。なんでもいいのじゃ。
そもそも願い事がない。少なくとも自分のことをなんとかしようとか、なんとかしてくれという願い事がないのである。
自然と出てきた言葉であった。
ふううううううううむと思った。
これだと今年一年もなんとか生きていけるのかもしれないからである。欲張りではないからである。あくまで自然の営みに感動して、合掌できたからである。
初日の出に感謝していたようである。自然とそうなったのだろう。計算がないからである。打算がないからである。今更である。今更ボキなんかが、計算して打算的に生きていたって、なんにもならない。年金の額が増えるわけはないしねぇ(^0^)。
初日の出を見てから、懇意にしているカコチャン神社に行こうとしてクルマをUターンさせた。
近くまで行ってさらにびっくりした。クルマを止めるスペースがない。路駐である。信徒の方々がたくさん集まっていた。え!こんなに信徒がいるんだと正直思ったからである。普段は、閑散としている神社である。ボキのwalkingコースにもなっている神社である。歩きながら、時々は100円程度を賽銭箱に入れているのだが。
これではしょうがないからと思って自宅に引き返した。
朝食後、孫と一緒に来ようと決めた。歩いてである。
そして、朝食後歩いて行った。孫と一緒である。
祈った。
孫と。
ここでも、ボキは古女房ドノと長女と孫と長男とその嫁さんたちの健やかな一年を祈った。
家に帰ってからあっと気がついた。
ボキのことをなんにも祈っていなかったんである。
わははははっはははっはははっははっはである。
今年も漫才みたいな人生を送るのじゃろうなぁと大笑いをしていた。リビングで。
おしまい。
新年である。 しかし、過ぎた年もこれから来る(来た)年も、関心がなくなった。過去も未来もなくなってしまった(^0^) goo.gl/mFuk8l
— Waishan Richunan (@tym943) 2017年1月1日 - 05:43
がっかりですねぇ~~~。
— Waishan Richunan (@tym943) 2017年1月1日 - 06:19
往時を知るものとしては(^0^) fb.me/8HBV6256C
フランクフルト発羽田行きの全日空機 ロシアの空港に臨時着陸 #ldnews news.livedoor.com/article/detail…
— Waishan Richunan (@tym943) 2017年1月1日 - 16:42
古市憲寿氏が年賀状文化に疑問「まだ出してる人いたんですね」 #ldnews news.livedoor.com/article/detail…
— Waishan Richunan (@tym943) 2017年1月1日 - 16:43
敵なしの「週刊文春」にもタブーが存在 作家のスキャンダルは敬遠 #ldnews news.livedoor.com/article/detail…
— Waishan Richunan (@tym943) 2017年1月1日 - 16:44