ヒンドゥーの神々を見ていたらなんか不思議な感じがしてきた
去年の十一月にインドに行ってきた。なかなかの旅であった。以前から憧れていたが、ようやくインドに辿りついたというのが正直な感想であった。ずっと前から非常に行ってみたかった国である。釈迦の誕生した国であるからだ。したがって、それを見てみたいというのがあったからである。
でも、インドは仏教の国ではない。ヒンドゥー教の国である。仏教よりも古い。それに気がついてはいたが、なかなか実感としてヒンドゥー教の国であるとは思えなかった。行って見ないとわからないということである。
キリスト教が、ユダヤ教から派生したユダヤ教別派であるというエライ学者様のご指摘もあった。それはそれで理解できる。まったくの新規で成立したものではなかったからである。仏教もそうだ。やはり基幹となっている思想なり、考え方があって、その上に階層を重ねたという指摘もあった。それはそれなりにわかった。そうかもしれないからである。
そして、去年の十一月にインドで多くのヒンドゥー教の神々を見て、ますますその感を深くした。
せりか書房の「ヒンドゥーの神々」という本を読んだからである。図書館から借りだして、読んでいた。その本は、まさにヒンドゥーの神々を扱っている。しかも写真付きである。楽しいこと限りなし。ボキのような一般大衆にもわかるように懇切丁寧に解説も添えてある。これがありがたいのである。
それに肉感的でもある。ヒンドゥーの神々は。
たとえば、ブラフマーにしてもそうである。ボンベイのプリンス・オブ・ウエールズ博物館の像もそうだ。ブラフマー₁は、修士課程の院生時代に習った。仏教についても、専門の大学院であったからタノシミにして大学に通った。もっとも通信教育で、仕事をしながら通っていたのでいわゆるスクーリングである。通学生だったら、もっと楽しかったであろうと思っていた。
さらにある。
ヴィシュヌ神もそうだ。ヨガのようなポーズをとり、こちらもなかなかのセクシーな姿である。三歩で世界を股にかけたと言われている神である。
もしかして、インドの神々は欲望をも肯定されていたのではないかと、素人ながら感じてしまった。高野山の理趣経にもそんなことが書いてあったような気がするのだけれども。さらにある。親鸞もまたそのままでも、つまり悪業三昧なるオロカな(ボキのようなアホ)ものでも救済してくださるようである。
根源はこういうインドの神々にあるのではないかと、ふと思ったのである。
図書館にいて。
そう思ったら、こんな駄文を書きたくなったからである。
さ、なんのために図書館に来たかわからなくなったから、元に戻る。
原稿の修正である。
原稿の。
アルバイトでやらせていただいている原稿。
アリガタヤ、アリガタヤである。
ウィキによる↓
注₁ ブラフマー(ヒンディー語: ब्रह्मा Brahmā)はヒンドゥー教の神の1柱、創造神でありトリムルティ(最高神の3つの様相)の1つに数えられる。4つの顔を持ち、それぞれの顔は四方を向いているとされる。ブラフマーはスワヤンブー(英語版)(自ら産まれる者)や、バーギーシャ(Vāgīśa、言葉の王)という名でも知られ、4つの口のそれぞれから4つのヴェーダを紡いだとされている。ブラフマーは時にリグ・ヴェーダに語られる創造神であるプラジャーパティと同一視され(リグ・ヴェーダの神々(英語版))、またカマ(英語版)や宇宙の卵であるヒラニヤ・ガルバ(英語版)との関連が指摘されることもある。ブラフマーはヴェーダ後の時代になってヒンドゥー叙事詩(英語版)やプラーナ文献の神話の中で存在感を増した。叙事詩の中で彼はプルシャの性格を引き継いでいるさされることもある。