近代的自我というと、島崎藤村でもって初めて触れた気がする。否、そう教わった。学部時代にである。確かに、自我と時代性との関わりという点では文学もまた大きな役割を果たしてきたのだろう。文学というのは、そういう自我と時代性との闘いの場でもあったのだろうとは思う。
村上春樹もそうである。自我という問題と切っても切れない関係にある。つまり簡単に言えば、自分のことに非常に関心がある。もっと言えば、自分のことしか関心がない。男と女がつきあい、恋愛し、肉体関係を持つというのが、村上春樹の小説の特徴だけれども、ただそれだけである。たぶん、自他の視点がないのだろう、村上春樹には。自他共栄なんてぇことを言ったら、村上春樹には嘲笑されるだけであろう。
で、そんなんでいいのか・それだけでいいのかという疑問があるのだ。
村上春樹批判ではない。好きな作家だからこそ言いたいのである。
すべての基盤に自我があって、それを時代と闘うことによって、ヒューマニズムまで高めていくというのがどうも信じられなくなってきたからである。ヒューマニズムという金科玉条的な絶体反対できない価値観というものが、そんなに凄いことなのか?という疑念がわいてきたからである。
だから、自我を見つめてみたい、ヒューマニズムの、あるいは民主主義の欺瞞を考えてみたいと思うのである。
ボキのような中途半端なバカジジイだからこそ、やるべきことであると思っているのだ。マジに。それでこそこのプチ修行日記というカテゴリーが有効となるとも。
(ToT)/~~~