と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

ヴァルナの民の登場

2013年03月24日 09時38分51秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

異形の人々の登場

 

 

 今日は朝から雨模様です。花粉症が小康状態です。これでやっと通常の生活になりました。しかし、まだまだですかなぁ・・参りましたね。

 今朝は、言ってみればヴァルナの民というようなことを考えておりました。今日も早く起きてみたのです。早朝にこういうことを考えながら、ひとときを過ごすのもまた一興です。もの好きとも言いますがね。

 愚生は、鎌倉時代から室町時代にかけた南北朝動乱の時代が好きで、いろいろと調べものをしているのです。特に後醍醐天皇という方が大好きです。なんというか、底知れぬパワーと、その生き方が、まさにこれは言い過ぎかもしれませんが、ヴァルナ的な王権を目指しておられたのではないかと思うとわくわくしてくるからであります。

 反対側に東国武士団がいるわけです。鎌倉幕府の武士達です。平安後期に勃興してきた戦いを専門とする武装集団です。もっと言えば殺人を専門とする技術者集団というか、職人たちというか、それ専門で生きてきた人々です。東国にこのような武士団が勃興してきたのは、平将門あたりからだという書籍を読んだことがありましたが、そうかもしれません。将門が、その後の武家政権を誘導していったという側面はあるのでしょう。しかし、東国武士団と言えども、政権の正当化は自分たちだけでは出来なかったのであります。いつも西国文化の中心地である京都の支えがなければ、政権の安定は図れなかったのです。

 そのことに気がついていた足利尊氏は、京都に住まいを定めたし、独立して武家政権を維持していったのではなく、貴族社会との共存共栄をはかったのです。徳川家康はそのあたりの基盤のもろさを嫌って、江戸に政権を作りましたが、これもまた明治維新で瓦解したのです。

 つまり、東国武士団は権力全体の質を変えることはできなかったのであります。武士達は、自然にできた政権であることを主張できなかったし、その根拠もなかったのであります。天皇から託された政権であるというポーズをとることでしか、基盤の維持は無かったのです。

 後醍醐天皇は、当時の王朝権力の危機を感じておられた。武家政権が跳梁跋扈して、鎌倉幕府は瓦解寸前だったし、足利尊氏もえらい勢いで制覇への道をたどっていたわけです。この二重性こそが、後醍醐天皇を立ち上がらせたと感じているのです。そもそもヴァルナ的な魔術への関心も高かった陛下です。密教への興味も相当深かったと言われています。伊勢の神道も当然追究されておられたし、同時に密教へもアタックしておられた。

 宇宙と社会の秩序をつくりだそうとすることを考えておられた。まさにミトラの技の追究でありました。後醍醐帝は、ありとあらゆる社会の境界に生きている庶民達を組織化しようとされたのであります。たとえば、本質においてボヘミアン的な生き方をしているヴァルナの民を自分の周囲に配置された。その代表格は楠木正成でありましょう。

 楠木正成は、東国武士団とは違う存在でありました。年貢とか税のために農耕を行わず、土地制度を基盤とした王権とは異なる仕方で、反鎌倉とか反中世的な生き方を志向しておりました。NHKの大河ドラマ「太平記」でも、武田鉄矢さんが演じる楠木正成が、傀儡を養っている場面がたくさん出てきました。しかも、妹は猿楽を演じている集団の女頭目をやっている。携帯電話のCMで有名な、おかあさん役の樋口可南子さんがそれを演じている。ま、そんなことはどうでもいいことですが、興味のあるのは、彼ら、彼女らがボヘミアン的な自由自在さを生きているということでありました。時代の流れに左右されず、ボヘミアン的なエートスを持っていた武闘派集団であったと感じるのです。

 後醍醐帝は、そうした末端の庶民達に手を伸ばされた。このこと自体英明なる帝であったと思うのですが、さらに、帝は禅律僧たちをも巻き込まれた。愚生にはここのあたりが実におもしろいのであります。

 知ってのとおり、禅宗には一元的な発想があります。すべては「無」であろうとします。ですから、現代の我々が二元論的発想から苦しんでいるそもそもの基盤を否定しようとしていると思うのです。禅僧たちは戦で亡くなっていった死体の処理も行ったし、死体が不浄であるとは考えませんでした。この姿勢こそが、社会の境界線で生きている庶民たちにぐんぐん接近していった最大の理由ではなかったのかと感じます。

 律僧は、奈良西大寺が中核となっています。僧の叡尊(1201~90)が活躍したのですが、神道と仏教をくっつけようとされた方でもあります。曼荼羅思想によって、伊勢神道を理論化しようとされた方でもあります。また、仏教の中に日本的な大地信仰を結びつけ、修験道との関わりを持つようになるのです。そして、被差別の民に対する救済も律僧たちは行うようになります。社会のボーダーラインで生きている人々に直接触れるようになっていきます。

 以上のような時代を背景として、異形の人々が登場してきます。

 権力システムの中に、この異形の人々を登場させることができたのは、まさにヴァルナ的な王権のみが可能だったのです。彼ら異形の人々の登場を促したのは、ここにまた芸能、つまり能楽や猿楽の源流があるということなのだということであると思います。

 異形の人々というのは、川の民、山の民、供御人、商人、禅律僧、密教者、悪党的武士、職人達、海の民等々であります。東国武士達だって、殺人を専らにする職人であったのでありますが、ま、このあたりはまた別の機会にいたしましょう。

 

 さ、これから長い日曜日が始まります。

 いい一日でありますように。

 

 

 (^_-)-☆

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3月23日(土)のつぶやき

2013年03月24日 05時12分18秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

4381: 国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいとも術なし (下野国 河内郡 上丁 神麻績部島麿) #tanka #waka

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【白鳳時代の仏像の特徴】①仏像全般が丸みを帯び、柔和な顔立ちである。②律令国家建設期であり、初唐文化の影響が強い。③すぐれた金銅仏が多く作られた。④仏教が朝廷内に浸透した。

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974 世間には五つの塵垢がある。よく気をつけてそれらを制するためにつとめよ。すなわち、色かたちと、音声と、味と、香りと、触れられるものに対する貪欲を抑制せよ(スッタニパータ)

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竹内瑞穂 探偵小説批評の欲望 : 甲賀三郎と本格/変格論争(愛知淑徳大学国語国文36号) aska-r.aasa.ac.jp/dspace/handle/…

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すべての学問分野をネットで無料で探すための210個のリソースまとめー新入生におくる探し方その2(読書猿Classic) readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-680…

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遅ればせながら『別冊太陽 仏像 日本仏像史講義』(左)と、今日ツイートした『仏像の知られざるなかみ』(右)を書店で購入。左の本とか写真が大きくてきれいで大量だからパラパラめくりつつしばらく見ちゃうね。「カッチョいい~」とか呟きながらw twitpic.com/cdgj3i

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おはようございます。いいお天気です。桜が咲いています。在籍校でも。なかなかきれいでした。


今日は町内会の役員をさせていただいているので、夜、ちょいと出かけるくらいであとはフリーです。本を読みましょう。本を。手もちの資料がなかなか乏しいとこれはなかなか苦労しますからねぇ。


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一度発した言葉というものは

2013年03月23日 16時02分22秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

[せめて世間様のために]

 

 

 一度発した言葉というのは怖ろしいものである。このブログのことを言っているのではない。これまでの来し方を思って言っている。仕事でいろいろなことを言って来たが、あるいは私生活でもいろいろと発言をしてきた。計算しながら話したことは無かったのだけれども、発言にはくれぐれも気をつけた方がいいという古来からの教えは本当だったなぁと、今になって思う。

 普段から人間についてどう感じているか、あるいは考えているかというのが如実に出るからである。その最たるものが、発言によるトラブルであろう。相手がどう受け取ったかということを、おもんぱかることなく、でたらめに発言をしてはならない。うぜーって思われている可能性だってある。ブログならまだいい。気に入らないなら、他のサイトに行けばいいだけである。発言はそうはいかない。聞きたく無くても、聞こえてしまう。愚生なんかは、悪口専門に聞こえてしまうから始末に負えない。マジに。普段は耳の悪いふりをしているから、他人の言うことなんぞ聞こえないんだけれどもねぇ(^0^)

 ある程度他人の評価も気にした方がいいだろうとは思う。厳しくあなたを指導して、大いなる成長を期待しているのかもしれないからである。それを全く無視してはいけない。素直にそれはそれで受けとめるべきであろうと思う。それでないと成長しない。問題は、気にしすぎの場合である。あまりに神経質にあれこれ気にして病になってはいけない。ダメだったら、ダメでいいのである。しかたないではないか。ダメだったら、また新しい世界や場所でがんばればいいだけである。その点、愚生のやっている生涯学習はなかなかいい。ダメ元であるからである。またどっかでがんばればいいだけであるから。

 生涯学習で無駄になったものは何一つない。全部、すてきな体験であった。回り道をしていただけでないかと、言われた時も随分あった。その結果がこんなもんかぃ?って。いいんだ、いいんだ。棺桶に片足入れた時に、「あああ、この世は美しい」って言われたブッダのように、オレも死んでいきたいだけであるから。今まで書きためた論文・愚生の原稿の載った雑誌や書籍を突っ込んでもらって。

 いいじゃないか、こんなもんで。これで愚生には精一杯なんである。一生は短い。時間がない。いつ死ぬかわからない。愚生は再生や、輪廻を信じないし、人生一発勝負と思っているけれども、だからこそ今この瞬間の連続がいとおしいのである。

 来月から二年生になるようだ。ようだというのは、まだ学費請求用紙が来ていないので。払うつもりでいるし、退学も自分からはしたくないので。これでまた新境地を開きたいものである。愚生の勉強範囲は非常に幅広く多くの書籍や論文を読むしか無い。だから時間がもったいないのである。朝から晩まで、ずっと読書して、ノートやカードをとっているのも、時間がもったいないからである。思うに、本当に良い時間を過ごさせていただいている。地位も名誉も、金も、力も、勲章もなぁ~んにも、全部無縁であるが、納得できる境涯である。

 他人になんと言われようと、そんなの関係ねぇ(小島よしおみたいだが)なんである。誰に言われなくても、自分のやりたい分野の勉強をしていくしかない。成果がでなくても、途中で放り出されようとも、それは自分が招いた結果責任である。最低でも、在籍校にだけは迷惑をかけないということをこころがけてはいるが。

 

 

 夕方になった。さ、これからジムに行って、夜は町内会役員会である。

 せめて世間様のお役に立てるようにやりまひょ。

 

 (^_-)-☆ 

 

 

 

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3月22日(金)のつぶやき

2013年03月23日 05時07分13秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

世阿弥『花伝』別紙口伝「花といふに、万木千草に於ひて四季折節に咲く物なれば、その時を得てめづらしき故にもてあそぶなり。…花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か、散らでのこるべき。散る故によて咲く頃あればめづらしき也」。

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↑”どんな花も、四季のここぞという時に開き、はっとさせられるから賞翫もする。それに、きまってそのうち散って影も形もなくなってしまう。だから再び咲くのだし、次に咲いた時には新たにはっとさせられる。面白いとははっとさせられること、花と同じこと"、開花を喜び、散ることを惜しむ実感あり。

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【本日発売】『言語帝国主義 英語支配と英語教育』(ロバート・フィリプソン著 三元社) 【出版社HP紹介文】「英語はいかにして世界を支配したのか?英語教育が果たしてきた役割とは?」 【Amazon】→ amazon.co.jp/gp/product/488…

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@yukionuma 美大の講評会で生徒たちのあまりに弱い「迷える子羊マインド」発言が続くので、僕は業を煮やして「アーティスト役目は羊ではなく、あくまでも牧羊犬。今はどんな弱い子犬でも、犬は犬という気持ちを持て」と言ったことがある。伝わったかどうかは分からないが。

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今は高校で漢文も学ばない人もいるようだが、東洋史(主に東アジア)は当然としても、日本史を専攻するためにも、漢文を読めないと話にならないことは自覚して貰いたい。未習者にとっては、漢文読解を養成するシステムがあるかどうかは重要。

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静嘉堂文庫美術館にて曜変・油滴天目を観てきました。24日が最終日のぎりぎり駆け込みです。こういう名品を観ていつも思うのは観るって何だろうと。見ても見ても見飽かぬとはこういうことで最後は手にしなければ意味がないと思っても、手にしても意味がない。超越ということに遭遇しているのですね。

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おはようございます。雨です。花粉症にはいい傾向です。ちょっと楽です。


それにしても昨日の花粉症はつらかった。塾で、大変でしたよん。しかも、この春から高校生になる男子が、ど~してもと~まに小論文を見てほしいと飛び入りでした。カードを使った独特の指導方法を愚生はやるので、とてもわかりやすいみたいですわん。ハハハ


水・木の二日しか働いていないし、しかも合計で二時間ですから、生活費の足しにもならんのですが。ま、いいか。時間がもったいないから。すべての時間を読書にささげていますので。(^0^)


しかし、きのうふと思ったことがあるんだけど、なんて弱い羊であってはいけないのかね。強者の論理ばかりが跋扈していて、実力もねぇのにうぬぼれていていいんかね。そう思うことがしばしばであるから。強者はいったん弱者になると、立ち上がれないっていうのは本当だろうなぁ。マジに。。


水の論理ですよん。老子の論理。柔らかいものほど、最強です。弱者もそう。柔道開祖嘉納治五郎もそんなことを言っておられる。全集本をまた読むか。。。。。


自称強者ほど、怪我をしますなぁ。愚生もそう。力んで稽古や試合をやっているときほど、怪我をしたっけ。腕力なんて当てになりまへんです。(^-^)/


ファーストネームで呼ばれることとなって goo.gl/ghfQT


968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりとうち克つべきである(スッタニパータ)

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広隆寺木造阿弥陀如来坐像:阿弥陀如来像は追善のために造像されることが多かったことから、840年の淳和上皇の死去を契機につくられたのではないか、あるいは842年に死去した嵯峨上皇の1周忌につくられたのではないかなどといわれている。twitpic.com/9csagt

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楽に生きる=余暇のこと

2013年03月22日 22時36分02秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

余暇をいかに活かしているか

 

 

 いかなる動物も、楽になるために生きている。餌を本能的に求めるのも、酷な環境でいるよりは、満腹感で楽になりたいからである。しかし、生物たちは楽になりたくても次々と失敗していく。微生物から始まって、草食動物も肉食動物も連鎖して失敗していく。食うか食われるかの食物連鎖の関係にあるからである。さらに空腹は満たされても、すぐにまた空腹は襲ってくる。永遠に食うための努力は繰り返される。このことは、峻厳な事実である。

 しょうがないと言えばしょうがないのだが。

 それにどんな生き物も年をとる。老いていくのだ。人間だってそうなのだ。忘れている人間が実に多いけれども。あるいは、年をとるということから逃避している方も多い。さらにさらに、生き物は必ず死ぬ。これもまたどんな生き物でもそうなのである。たとえライオンでもそうである。老いて狩りができなくなったら、雄々しい雄ライオンだってハイエナの餌になるしかない。

 だから動物たちには、楽を求めるための「余暇」がない。余暇を楽しんでいたら、食われっちまう。

 人間は食物連鎖から免れた唯一の生き物である。楽になるためにどうしたら良いかということを考えるための時間的余裕、つまり「余暇」を可能性として得ることのできた生き物である。あくまで可能性としてである。つまり、余暇のことを有効活用していないのもまた人間であるからである。

 もっともっと金がほしいと言ってはあくせくと働き、現状に満足できない。もっといい地位がほしいと言っては、あくせくと社内や学内で政治活動にいそしみ、もっと名誉がほしいと勲章のために時間を浪費している。レベルの低い「楽」のために、くだらない他人の噂話だけに気を取られ、娯楽にうつつを抜かしてしまう。まったく「時間」の浪費である。

 せっかくの「余暇」をいただいているのに、結局無駄にしている。時間を無駄にしているということと同じ意味であるのだが。

 すばらしいレストランで山海の美味に下鼓を打っても、それは我が舌の上を通り過ぎる一瞬の喜びでしかない。美人、美男との恋の語らいだって、時間はすばらしかった色彩を奪っていく。金や勲章は幻影にすぎない。そういうものは、けっして本当の「楽」を与えてはくれない。

 ついでに言えば、現代は貨幣が神様の代わりになっていて、地球全体に君臨しているのが貨幣である。今、これだけドルが流通しているという世界の状況は、すべてをドルが支配しているということである。神様もドルも、どっちも「オラが永遠だ」って言っている。この世も、人間も、生き物も滅びていくのだけれども、貨幣は永遠だと言っている。貨幣は、滅びていくものを買うことができ、次々と交換もしていくことができるからだと言って。貨幣で買うことができるものは、滅びない、解体しないということで共通している。だから貨幣は神様といっしょになってしまう。これでいいのかね?

 グローバルなんとかというのは、貨幣で作った紙の着物でも着ている神様が言っている戯言ではないのかって思うのだが。

 元にもどろう。

 余暇である。余暇がないと、自分を失う。つまり、夢幻のようなものを追いかけて、時間を無駄にして生涯を送っていて、それでいいんかねということである。ちょっとでも疑問を持たないといかんっちゅうことである。

 スポーツだって、余暇がないとできない。余暇をどう活用していくかという観点からスポーツを考えなさいということを社会体育の指導者の講座で聞いたことがある。あれは真理であると思う。勉強だって、余裕の無い精神的に追い込まれた状態では成果があがらない。

 死ぬ時も、愚生は楽に死にたい。死にそうになって横たわっていたら、猿やわんこや雀やリスがソバに来て一緒に泣いてくれるようなそういう調和ある世界で死にたい。・・・なんて書いていたら叱られるから、もうこれくらいにしましょう。非対称の対立の世界から、対立のない対称の世界を生きていきたいからである。

 

(^_-)-☆

 

 

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ファーストネームで呼ばれることとなって

2013年03月22日 12時51分24秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

ヒデさんと呼ばれて 照れるなぁ。。。。。

 

 

 けふは、在籍校の隠棲室にいて、ずっと読書三昧である。なかなか快適な部屋であるから、お気に入りなのだ。それも後二年しかいられないなぁと思うと、若干焦る。

 昨日の塾で、ちゅ~ぼ~男子にファーストネームで呼ばれるようになった。「ヒデさん」と言ってきたのだ。笑ってしまった。しかし、愚生は軽い性格なんだなぁとしみじみ思う。よく言えば親しみ易いってわけだ。もっと言えば、威張っていないからとも言える。国語も、数学も、英語もカードで教えていくから、「手品カード」っていうようにカードが有名になってきた。しかも色はピンクだ。考え方をパズルのように、一枚一枚使っていく。余ったらあげちゃうから、ちゅ~ぼ~はありがたがる。愚生の自費で買って使っているのを知っているから。もっとも、100円ショップで50枚単位で売っているんだけどね。

 たまには、古銭なんか持ってきて、これっていつの時代ですか?と聞くのもいる。昨日の男の子がまさにそうだった。中学の先生に聞いてもわからなかったからとのたもうたのだ。愚生は、吉川弘文館の歴史手帳をいつも胸ポケットに入れているから、こんなのは朝飯前である。手帳で調べればいいだけであるから。(^-^)/

 なにしろ塾は楽しい。週に二回しか来ないので(自分の意志で)、こういう楽しみならもっとやりたいのだが、優先順位は在籍校での勉強が上回る。だから、極力読書と執筆活動に時間を割いている。でないと、悔いが残る。

 配偶者は、全部やめっちまいなさいよと迫るが、それはできない。塾の先生とか、他大学講師とか、在籍校も含めてである。理由は旅行にいけないからと言うのだ。そりゃそうだし、たいへんにありがたいことであるけれども。

(^0^)

 しかし、辞めたくない。今のところ、ぼけてないようだし、ますます記憶力が増しているように感じるからである。なにしろ「共学・共遊」である。一緒に問題を解くし、一緒に考える。時には、一緒にだじゃれを言って遊んでもいる。ハハハである。そんなバカなと言われるのは覚悟の上で、ここに書いているんだけど。

 でないと、論文が書けないからである。書くためには、いろいろと覚えていなくちゃならんからである。丸写しではないからである。そんなものを書いていたら、抹殺されてしまうからである。

 けふはとうとう愚生のUSBメモリーに新しいフォルダーを作った。論文の総仕上げをしまっておく提出論文用のフォルダーである。一章ごとに分けて執筆していくつもりである。かなりの長文になるだろうから、いかに優秀なコンピュータでも、処理能力には限界があるからである。今まで書きためてきた文章が相当文字数あるので、さらにこれから改作をしていかなくてはならない。

 四月二日に院生のオリエンテーションがある。そこで師匠とまた会うことができる。師匠の講義を全部拝聴して、すべてを吸収させていただくつもりである。今年度も。こういう楽しみを棄てることはできませんなぁ。

 

 

 (^_-)-☆

 

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3月21日(木)のつぶやき

2013年03月22日 04時57分47秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

おはようございます。けふも早起きしました。昨日まで暖かかでしたから、ちょっと寒いくらいに感じましたが。いい気持ちですね。


弥生のエノキ保存処理完了 橿考研博特別公開 : 奈良 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) yomiuri.co.jp/e-japan/nara/n…

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「朝日遺跡よみがえる弥生の技」が愛知県清須市の清洲貝殻山貝塚資料館で開かれている。朝日遺跡から出土した2028点が去年9月に国の重要文化財に指定され、約250点を展示。 ow.ly/jgmrB

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鳥取の神社秘蔵の「和鏡」調査 - MSN産経ニュース sankei.jp.msn.com/life/news/1303…

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おもしろうそうです@鳥取の神社秘蔵の「和鏡」調査 - MSN産経ニュース sankei.jp.msn.com/life/news/1303…


504/読人知らず/我が恋を人知るらめやしきたへの枕のみこそ知らば知るらめ #tanka #waka

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503/読人知らず/思ふには忍ぶることぞ負けにける色にはいでじと思ひしものを #tanka #waka

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【プレミアムサービスをご契約のお客様へ】放送方式変更に伴う、プレミアムサービスにおける標準画質放送終了のお知らせ|お知らせ一覧|衛星放送のスカパー! skyperfectv.co.jp/oshirase/premi… @sptv_todayさんから


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灘の伝説 名物教師橋本武先生のこと

2013年03月21日 09時33分27秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

「銀の匙」の授業は優れたノウハウ学力の養成になっている

 

 

 受験秀才というのは、コンテンツ学力に優れている。単調な暗記ものでも、計算でも、ひたすら勉強できるから学校秀才とか受験秀才というように言われることになるのである。それはそれで賞賛に値する。たいしたものであると正直愚生は思っている。

 で、今日は、天下の学校秀才校である灘で行われたことで有名になった同校伝説の名物国語教師橋本武先生の「銀の匙」のことを書きたくなった。

 知ってのとおり、三年間をかけて「銀の匙」をじっくり読み込むという授業である。中勘助作の実に薄い文庫本一冊である。200頁しかない。夏目漱石が、これほど美しい日本語はないと褒めた作品でもある。幼いひよわな子どもがたくましい青年に育っていく物語だから同年齢を重ねて育っている生徒には迫るものがあるだろうと思っているが。

 問題は、これ一冊しかやらないということであろう。現代では縛りがきついから、とうてい出来ない相談であろう。学力というのは受験のためにあると思っている狭量な人種からは、総スカンをくらうに違いない。そんなのニーズにないという論理で。ま、これもまた仕方のないことであろう。コンテンツ学力しか視野にないからである。

 2011年の週刊ポストに橋本先生の授業が紹介されている。土曜講座として、退職された橋本先生が灘の生徒達に希望者を募って公開授業を行ったのである。小学館の企画である。最初、講演になってしまうのではないかと小学館側は心配していたそうであるが、杞憂でしかなかった。

 教室に入ってすぐ黒板に「あそぶ」と板書された先生が、「『遊ぶと学ぶ』このふたつに共通するものはなんですか?」と聞かれた。

 は~いと言って手を挙げた生徒は、

 「遊ぶのは好きだけど、学ぶのは嫌いです」

と言ったのである。難関校の灘ですらそうなのである。嫌いな学ぶを毎日、毎日強制されているのでは哀れである。遊ぶ感覚で学べばいいと橋本先生はよく言われていたが、これは上からの押しつけではいけない。遊んでいるつもりが自然に学んでいることになっていけばいいし、そういう方向に持って行くのがプロの教師であるとも言われる。さすがである。 

 橋本先生さらに続けられる。

 「はい、ほかに気がついたことは」

 「<あそぶ>も<まなぶ>も、仮名で三字です。どちらにも<ぶ>がついています」

 「その通りだよ。このあたりまえのことに気がつく。これが大事なことなんだ」

 「じゃぁ<あそぶ><まなぶ>から<ぶ>を切り離したらどうなる?<あそ>と<ぶ>。<あそ>って何だ?」

 ここからが秀逸である。

 <あそ>からは、阿蘇山、天の橋立の内海も阿蘇。日本語っておもしろいね、同じ言葉が山の名前になったり、海の名前になったりする、と言われる。橋本先生の真骨頂である。

 さらに<まなぶ>である。<まな>って、何だ?<まな>は<ま>と<な>になる。<ま>は「真」という字を書いて、本物・上物ということ。じゃぁ、<な>は?・・・・ひとつは文字のこと、片仮名や平仮名のこと。あの仮名というのは仮の文字ということで、本物の文字は漢字であるというのがあって、だから漢字のことを「真名」という。それから<な>には、副食物という意味もある。菜っ葉の菜も同じ。

 <ぶ>はどうだろう。<ぶ>コレクションを考えてみよう。<あそぶ><まなぶ>は動詞です。ほかにも<ぶ>のつく動詞は多い。どれくらい知っているか書き出してみよう。

 

 以上、ちょっとだけ紹介させていただいたが、楽しい、楽しい。こういうことを、自分で調べて学習していったらあっというまに大学者になれるかもしれない。

 横道にそれているだけじゃないかという批判があるかもしれない。しかしである。こういうように、自分で調べながら学習していくというのが最高である。なぜなら、学ぶことの「ノウハウ」がマスターできるからである。「コンテンツ学習」と「ノウハウ学習」の対峙である。どっちがいいとか、いけないと言っているのではない。両方できればいいのである。

 実際、灘の生徒は、どっちも優れているから、あれだけの進学実績があるのである。たいしたもんである。

 そう思いません?

 愚生はどっちもそんな能力無いけどねぇ。毎度のことながら、コンテンツも、ノウハウも最初から無いから苦労しているんでしゅ~~。こんなこと書いているとしぼんじゃうな。絶対諦めないっていうのだけが取り柄なんだけど。

 

 (^_-)-☆

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                                      

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3月20日(水)のつぶやき

2013年03月21日 05時18分11秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ふうううううううううう@【柔道】園田監督との信頼関係「全部演技だった」(スポーツ報知) - goo ニュース news.goo.ne.jp/article/hochi/…


パワハラとか、アカハラって理由は柔道のようなことなんでしょうなぁ。ゴマすらないと、自分が逆に危ないっていう弱者の論理だ。やる方も、やられる方も。


完全にフリーでいられるっていうのはナイのかね。


無いのか。。。おぞましい世界ですよ。まったく。


今日は、祝日だけど、まぁいろいろ用事があって、ふらふら飛び回っておりました。つまらん用事ですが。13:19ですが、これからまた出かけます。そしてそれから塾です。一コマのみ。楽しいひとときを過ごしてまいります。


森浩一先生の「考古学と古代日本」(中央公論社)の部分コピーをしておりました、さっきまで。県立図書館から借りてきていたので。今週中に返さなくてはなりませんから。


しかし、良い本ですなぁ。欲しいけど、年金生活者にはとても買えないですから。諦めるしかない。


現役時代に、もっともっと専門の書籍を買っていれば良かったです。ほんとうに、そこの現役社会人のあなた「今でしょ?」です。(^-^)/


”70歳(古希)で一種の生き仏とみなされてから以降、人間から徐々に解放され始める。その際、老衰や物忘れがその過程の証拠とされ、人が神仏の世界に少しずつ再入していく印だとされた。” j.mp/uZAjF0 『水子 中絶をめぐる日本文化の底流』ラフルーア

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942 安らぎを心がける人は、眠りと、ものぐさと、塞ぎこむ心とに打ち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな(スッタニパータ)

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血圧の6項目から脳卒中の発症予測 国立がん研究センターなど trib.al/4LpejxB @zakdeskさんから

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手持ちのわずかな資料と、限られた情報検索、狭い範囲の読書からは、なかなか新説なんて導き出せませんなぁ。多くの論文を拝読していると、実に困難な歩みをしていると思ってしまいます。それでも、愚生は愚生なりにやっていくしかないんでしょうねぇ・・・とほほ。


3月23日から4月7日まで、海龍王寺にて『春季特別公開 十一面観音特別開帳』を催します。期間中、境内の雪柳と桜が見ごろを迎えますので、秘宝 秘仏と花とを鑑賞していただけます。法華寺様の十一面観音も特別公開されておりますし、佐保川や平城宮跡の桜も見ごろを迎えます。

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薬師寺僧侶、20日「声明の調べ」 金沢歌劇座 hokkoku.co.jp/subpage/OD2013… 「薬師寺声明の調べ」は20日午後1時から、金沢歌劇座で開かれる。1300年の歴史を持つ薬師寺の山田法胤管主を大導師に僧侶ら9人が仏教音楽の荘厳な世界を醸し出す。

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石高制の成立については、銭の品位が雑多になり、価値の統一性の高い米収取へ転換したという点は既に指摘されていたが、私はそれに対して、「いや米も枡が不統一じゃないか」と批判したことがある。今回の論考でその疑問はほぼ解消した。織田領国は枡を統一した地域から順に石高制へ転換したようだ。

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本多博之「織田政権期京都の貨幣流通―石高制と基準銭「びた」の成立」(『広島大学大学院文学研究科論集』72、2012年)。石高制成立の背景に関して興味深い指摘。この時代に関心のある方は一読をお薦めしたい。 ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00034343

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地道にやるしかないようで

2013年03月20日 08時03分12秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

地道

 

 

 花粉症にかかってしまい、と言うより毎年のことなのだが、この時期は実につらいものがある。で、処方された薬を飲むのだが、これがまたつらい。眠くなるのだ。だから、ここのところ早寝・早起きに生活が変化している。かえってありがたいかぎりである。今朝も4時である。起きたのが。それからずっと読書をしていた。最近、お気に入りの学者先生の御著書を徹底的に読んでいるので、ノートまで取り始めたからこれまた楽しいものである。もっとも、師匠からのご指導でその学者先生の本を一冊紹介していただいたのだが、おもしろくてならない。もう10冊くらい読んだろうか。普段は、カード派なのだが、ノートにも手を出した。久しぶりである。

 地道な学習がやはり一番いいのだろうと思う。ところが、世間には「7日でマスターする英語学習法」とか「居眠りしながらできる英会話」とかの本が売れているらしい。英語に限ったことではなく、記憶法の本とか、資格試験の本でも見かける。簡便さが好まれるというわけである。

 ホントに7日とか、居眠りしながらとか、そんなんでマスターできるんかね?と思うのは、愚生ばかりではあるまいと思う。特に、学校秀才であった方は鼻でせせら笑うであろうと推察する。推察するというのは、愚生は学校秀才ではなかったからで。ハハハ。

 ところがである。あることに気がついた。7日でマスターする国語というような学参はないということに。あるのかもしれないが、売れないのであろう。国語は、受験でなかなか高得点がとれない。英語や数学なら話しは別である。学校秀才なら満点がとれる可能性もあるから、そちらに走る。ま、それはそれでいい傾向である。地道にやるのならばである。

 受験業界ではだから数学・英語の先生が好待遇になる。そりゃそうだ。ニーズがあるんだから。国語はなかなか人気がない。誰でもできると思われている節もある。そうなのかな?

 現代文の指導なんかは難しいと愚生は思うのだが。コツを知らないと、間違ったことを教えてしまう危険性もかなりあるからである。登場人物の気持ちはいかがかとか聞いているようでは、そりゃまだ素人の域を出ていない。だから、市販の問題集でその手の問題を出しているのを見ると、愚生の顔はひん曲がってしまう。笑いすぎるからである。ハハハである。

 結局何が言いたいのかというと、言語学習に王道はないということである。一気にマスターできる方法などないのではないか。じっくりとやるしかないのではないか。そういうことである。

 

閑話休題

 

 他人がバカに見えてならないという輩は多い。愚生は、徹底的に自分が無知であることを知っているつもりであるから、他人のことをそう思うことはない。まったくない。ましてや、自分の弟子とか、教え子に対して罵詈雑言を浴びせて、粋がっているようなあふぉ~ではない。柔道の某指導者のような案配で指導することはない。教えるということは、確かに自分が優れているから、後から続いてくる方々に指導するということであって、糞味噌にそういう方々を貶すことではないのである。

 パワハラ、アカハラとかやる奴は、中途半端な実力しかないから、やってしまうのであろう。

 最近、暴力行為・パワハラで騒がれている柔道はマイナーである。競技人口ではフランスにかなわない。オリンピックに出た時から、間違った方向に行ったのではないかと憂慮していたのだが。その点、我が国の誇る剣道はいい方向に行っている。日本古来の武道の良さを保っている。

 剣道が西欧化したら、そのうち電気コードでもつけて、エィ!ヤァ!とやるのではないかと心配している。そんなことになったら、時代劇を見る必要はなくなる。(^-^)/

 

 武道も、言語学習も、地道に修行・努力したものにはかなわないということが、結論である。安易な道はないってことである。

 

 

(^_-)-☆

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3月19日(火)のつぶやき

2013年03月20日 05時13分02秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

おはようございます。一日家にいることとなりました。昨日は早寝したので、今朝は早起き。やればやれるんですねぇ。退職してから、ずっと夜更かしをしていたのですが、かなりムリをしていたですね。焦りもあったのかな。学力が無いっていう現実もあったし。(^-^)/


そんなに焦ったって、しょうもないのにねぇ。この先、このまんまではないですか。


せっかく在籍校からお休みをいただいたんで、私的な用事をちょっとやりまひょ。タイヤの交換しないと。


郷土史家の平田篤胤のことを書かれた原稿をワープロ打ちをしていました。郷土史研究会の編集担当でありますから、なにかとあります。しかし、エライ先生の原稿は手書きですから、なかなか読みにくい。さらに専門用語がこれでもか、これでもかと押し寄せてきます。参りました。


できたからいいか。はははは。


これから、ちょっとスポーツジムに行って、癒してまいります。(^-^)/。


もっとも原稿おこしは、映画「小川の辺り」(藤沢周平原作)を見ながら別のcomputerでやっていたから、そんなにダメージは無いんですケドね。単純作業が一番こたえますから、ながら作業でいくしかない。


藤沢周平の映画を見ていると、あっちは庄内地方ですが、山形にちょっと帰りたくなりますねぇ。桜も見たいし。春が待ち遠しいという点では、雪国故に日本一のところですから。待っていたから、桜がきれいなんです。なんでもそう。綺麗な女性もそう。待って、待って、待ち焦がれるべきです。(^-^)/


もっとも、待っていたおかげで、生涯独身というのもあり得るでしょうから、いろいろ考えた方がよろしいでしょうよん。これは年配者からのご忠告です。


富士山のように、見る角度、どっからでも美しいというのはなかなかありませんけど。女優の原節子様を除いては。(^0^)/


今日の記事に書いたイシガミ様のことは、書いてから気がつきましたが、こういうことをオレはやりたかったんだということでありました。いつもながら、書いて初めて自分のことがわかるというお粗末な人間ですので。それでは、また。夜にでもここに来ましょう。さ、ジムで身体を鍛えてきます。


私は信仰や宗教を学問として扱う気はないですが、でも私は割と切り捨てたがりな気がします。でも、文献に書かれて残っているものが、大海の一滴に過ぎず、ましてや、信仰や能楽のように今も続けて行われていることの場合、あまり簡単に判断するようにはしたくないとも思ってます。@genshin01

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バランスの難しい話なんですが、自分の周りをイメージする限り、信仰対象を「文献に残された事実」だけで批判されることは非常に不愉快なことです。「文献に残されなかった事実」や「信仰されている事実」を如何に勘案して言葉にするか。この辺は、その人のセンス・人柄・能力なんだと思います。

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信仰や宗教を扱う研究者が「文献に○○と書いてあるから××ではありません」という指摘をする時、その人の人柄がでるように思います。つまり「その次どうなんだ?」ということ。「文献には○○とあるが、××にも…」と意義を認める人、「文献学・歴史学では○○です」と切り捨てる人などに分かれます

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明月院上杉重房像:本姓藤原氏で、宗尊親王(皇族将軍)が6代将軍に就任する際に近侍した。上杉氏を称し、謀反の疑いで解任された親王帰洛後も幕府に仕えた。足利氏と婚姻を結び、孫の清子が尊氏を産んだことから、子孫は関東管領に任じられた。twitpic.com/c5zqd7

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梅原猛”縄文土器には空間の恐怖があるように思います。悪霊が入ってくるのを恐れるかのように全面に紋様をつけます。とくに口の部分や底の部分、つまり外部から悪霊が入りやすい箇所には非常にダイナミックな紋様をつけます。” j.mp/rEw280 『縄文人の世界』

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路傍にある石の像は意味があった

2013年03月19日 09時22分01秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

イシガミを写す

 

 

 今朝は、ちょっと早起きをしたので、この一月に亡くなった紀州の老犬ジョン(享年17歳)といつも散歩していた田舎道をたどっていた。カメラを持って。いいお天気である。さわやかであった。そして、老犬がいつも不思議そうに見ていた古い石でできた像を写真に撮ってきた。

 老犬と共に、全身に精霊の風を受けていた像である。古ぼけた形の崩れかかっている像である。昨日、郷土史家の妙見像の原稿をワープロで打ち直していたから、このようなものに関心が向かったのかもしれない。否、兆しはあった。幼い頃から、山形の故郷でこういう石の像はかなり見ていたからである。おまけに、悪童であった(今でも悪童であるが=悪爺)から、悪たればかりやって悪童仲間と遊んでいた。おしっこや石を投げたりして、どっちが命中率がいいかとかなんとか、実にばかばかしい罰当たりなことを言いながら。だから、こんな罪作りな生涯を送るはめになったのであろう。少なくとも宗教者には絶対になれなかった。

 こういう像は、田舎ならいくらでもそこらへんに転がっている。エロチックな形をしたものもある。ガキのころはよくわからなかったが、今となっては大変おもしろい。地蔵さんの像もいろいろあって、これまたかわいいのを中心に茅屋の書庫にちょこっと置いてある。あ、こちらはちゃんと買ってきたものです。暇なときに(たいていは非常に暇である)眺めては、まねごとで合掌したりする。落ち着く。実に落ち着く。

 愚生は、居住地に今は市町村合併で組み込まれてしまったが、U町というところの町立中学校に初任者として赴任させていただいた。いくつかの幸運があって、本来愚生のようなものではなくて、国立群馬大学出身の新進気鋭の若者が赴任する予定であったのだという。それが、急に地元に教員として決まったからということで、欠員が出たのだ。そこで、仕方なしに愚生に声をかけていただいたのである。本当にラッキーであった。以来、四〇年近くにわたって、この地に住まわせていただいている。感謝している。U町も、居住地も実に住みやすい。気候も温暖で、魚も、野菜も、なんでもうまい。それに東洋一と言われる大病院もある。人情もある。愚生のようなよそ者にも親切にしていただいた。しかも、近隣の進学校を出ていないのに、高校の校長までさせていただいた。奇跡だと言われた。人脈が全くないからである。今も、ないけど。

 そのU町に非常に多くのこういう石の像があるのだ。よい風景である。馬頭観音が有名である。馬に乗った観音様が、坂道の途中にいくらでもおられる。土地の人々の労役馬に対する思いやりである。愛情に満ちている象である。いいところだなぁと、U町の中学校の教員をさせていただいている時に感じていた。まさにそのとおりの土地である。

 柳田国男に「石神問答」という作品がある。

 こういう石の象でできている神たちについて書いてある不思議な作品である。今回この記事に紹介したようなものとはちょっと違うが、我々日本人の潜在意識にある「古層の神」を取り上げている。「シャグジ」という不思議な神たちを取り上げている。他の場所では、縄文時代から続いている像もある。

 そうした像を追って、離島を巡ってきた。場所ごとにいろいろな呼び方をされていたが、不思議な神たちである。しかも、呼び方は柳田の言うように「サ音+ク音」が多い。シャグジ、ミシャグジ、シャクジン、シュクジン、シュクノカミ、シクジノカミ等々。この呼び方は、世界の「境界」を意味するものと柳田に教わってからは、非常に興味が沸いた。

 シャグジは、国家神道の枠組みには組み込まれていない。どんな帳面にも出てこない。言わば土着の神々である。さらに言えば、太古の昔からこの日本列島に息づいていた神々でもある。まだ神社というものもなく、組織的な宗教団体などもむろん存在していない。愚生のように、カメラを片手にというあふぉ~な老人もいない。

 ところが、この古層の神は生き残っていたのである。芸能と技術を専門とする職人達の世界である。その名も「宿(シュクジン)」である。

 ここまでが愚生の問題意識である。ことの発端である。農民芸能と能楽源流ということを考えてきたのも、これがあったからである。悪童時代に、小便をひっかけて遊んでいた罰が今になって、像の由来と、と~まの生涯学習として登場してきたのである。強制的に。ありがたいかぎりである。感謝である。見捨てておられなかったのである。

 往生するためにも、真剣にやらせていただこうと思っている。

 

 

 (^_-)-☆

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3月18日(月)のつぶやき

2013年03月19日 05時06分24秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

おはようございます。けふは、花粉症がひどいことになっています。ふうううう、辛い。


こんなものがなぜ流行しているのでしょうかねぇ。まったく、ふざけた話ですわいなぁ。(*_*) マイッタです。


ちょいと在籍校に行って、図書館に顔を出さないと。借りている本がたくさんありますから。それに、読書三昧の生活をエンジョイしないと。


今週は、水曜日が祝日で休みですもんねぇ。学校の好きな愚生は、時間さえあれば学校に行っちゃうんです。(^0^)


明日は入学試験らしい。隠棲室には立ち入り禁止です、明日は。けふはOK。明日は家にいなくちゃならんか。Tabletを持ってきたが、また持ち帰って、明日は県立図書館でお勉強じゃ。ははははなのだ。バカボンのパパみたいだな、これじゃぁ。どうせ暇だからこれでよし。


仏像のことを書かれた郷土史家の原稿を拝読しているが、専門用語がかなりのもんです。こういう世界で活躍されてきたのだなぁと思うと先輩諸氏の勉強ぶりがこれまた凄いことになっているのに気がついて、またまた脱帽です。妙見信仰について書かれているから、読むのも大変じゃ。


昨日もムコドノに、大学院に行ってなにになるんですか?と聞かれてしまった。当たり前である。なんにもならないからである。資格をとって、なにかに就職するってコースはないからで。何度言ってもわかってくれませんなぁ。。。。アア。。。。。。


趣味で学校に行っているし、これまで勤労学生をやってきたのも、ずっと趣味でありました。学部も勤労学生、修士もそう。専門学校は通信。やっと通学できるようになったのが、現在の在籍校。これも他の大学で働いているから、塾のアルバイトもしているから勤労学生だけどね。


趣味の結果、食えるようになったし、三七年も一介の田舎教師をさせていただいたし、ま、これでよしとしているんだけど。どうしてもわかっていただけないようで。そもそも学校に行くのが、なにかになろうとするためという発想自体が、愚生にはないので。どうでもいいと言えば、どうでもいいので。


さ、これでよかよか。4,000字も打ったので、かえりまひょ。つかれましたわん。こういう地味な打ち込み作業って、オイラは苦手ですなぁ。14:46です。それでは。。。


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最初にハンセイありきです

2013年03月18日 08時16分46秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

若いときより反省力が増してきている

 

 

 若い時は、他人に何か言われると、「何を!」とか「このやろう!」とか、今の若者がよく言う「キレル」状態になって、反論ばかりしていたものだった。それが、一人前になるということだと思っていた。言い争いに負けないってことがである。

 さらに、オイラの貧乏も国家のシステムが悪い、カラスがカーカーと鳴いていても国が悪いと本当に思っていたのだ。なんでもかんでも、他者が悪いのである。どうも、これは七〇年安保騒動を経験した、ちょっと愚生より上の世代から愚生の年代にかけて多いような気がする。(おめぇだけだろうと反論されそうだが)また仲間内の人間と話しをしていても、論理の展開を分析しながら聞いているんだから始末に負えない。愚生は、愚生のような人間とは友達になりたくない。(^0^)

 だっていちいちけちをつけられていたんじゃ、話しにならない。最近では2チャンネルの炎上っていうのがおもしろい。めちゃくちゃなことを書いて、感情的になっている。もうよしたらと申し上げたくなるから、不思議だ。若いときのオレと一緒ではないかと思うからである。

 じじぃになると、もっと不思議だ。「他人の悪口を言う前に、自分の悪口を言う」スタイルになってきたからである。まずは、最初に自己嫌悪に陥る。そしたら、他人の欠点がわからない。黙ってニコニコしていれば、安全である。わはははである。

 酒を飲む時もそうである。もっともこっちの機会は、ぐっと減ったが。最初に酔っ払った時を想像するのである。そうすると自己嫌悪に陥る。だから基地外のようには呑まない。不思議な論理展開である。

 自己嫌悪って、あんまりいいことではないと書かれることが多いが、そんなことばかりでもない。有名なイエスの話にあるではないか。娼婦を石打ちの刑に処する時に、イエスがなんと言ったか。この中で、悪いことをしたことが無いと言う者のみ・・・・とイエスが言ったら、誰も石を持って娼婦を追い払うことができなかったという話しである。愚生はこの話しが好きだ。

 愚生も同様である。原罪を背負っているではないか。他人のことをどうやこうや言えんではないか。言ったらおしめぇである。そう思っているからである。

 このことは、配偶者に対してもそうである。最初に反省ありきである。それから、感謝の言葉をもって、接することである。相手は少々気味悪く思うだろうが、なに、かまやしない。

 

 職場の上司の悪口を言っておだを上げている暇があったら、生涯学習でもしていたほうがよい。他者のことなんか、あまり関心をもたれないほうがいい。退職したら終わりになっちまう人間関係なんか、なんの意味も無いからである。もっと真実のつきあいができることの方が、愚生は大事だと思うのだが。

 違いますかな?

 

 (^_-)-☆ 

 

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3月17日(日)のつぶやき

2013年03月18日 04時55分34秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

21:50です。やっと帰ってきました。孫と随分楽しんできました。男の子ですから、端午の節句用に人形を買ってあげました。上杉謙信公をのを。アパートに住んでいるから、小さいのですが。


孫と一緒にいると、力をもらいますなぁ。生きる力を。全く、全く。(^-^)/


しかし、花粉症がひどいことになっています。アタシのです。参ったね。参った・


こんなのアタクシの子どものころにもあったのかな?なかったんじゃないっすかねぇ。。覚えて無いけど。


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/