と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

感情をいかにコントロールできるかという内容の本に実に刺激を受けたが、これって政治問題にもあてはまるかも

2017年04月24日 07時20分19秒 | とーま君の流儀2017

なにが一番堪えたかというと「なにを言われても『言い返さない』という作戦」という章に感心した

 

 

感情コントロールができるか、いかにできるかということがボキの課題である。いろんな宗教に興味を持ってきたのも、所詮自分のこころがコントロールできないからであった。なにしろハラが立って・ハラが立ってしょうが無い男だったからである。自分自身のことでもハラが立つ。さらに、社会にも、政治にも、かつて同僚だった人々にもである。家族にもである。ついでに言えば、低利子の銀行にもハラが立ってしょうがないのだ(^_^)。

つまり、そういうくだらない人間なんである。しょうがないなぁと自省しているんだけど、解決方法がないのじゃ。

退職してからは、配慮するということもなくなったから、ハラばっかり立てている。さすがにクチにすることはないが、ハラの中ではドロドロしているものがあるのだ。十分自覚していることである。

もしかして、人格ができているとか重厚な人格者だと言われている方々は、ボキのようなくだらないことで感情を乱されることもないんだろうと思っている。

つまり、感情コントロールが上手にできるというわけであろうと想像している。ボキとは違う人種である。だから人格がデキているってぇわけである。見習いたいことである。

それだけ周囲から影響されないんであろうから。影響力というものは、舐めたらアカン。他人への影響力ではない。他から影響されるということである。つまりフラフラしているってぇ案配である。影響されてあちこちフラフラしてしまうことである。

信念がないということでもある。堅い信念がないから、こうなる。不動の思想とも言っていいだろう。

かつて、野球で甲子園に行ったことがある知人と話したことがあった。野球の指導方法をめぐってであった。体罰をどう考えるかということである。知人は、信念があるから体罰容認だった。信念でもって野球に取り組んでいた。

ボキは、柔道に於いても成果を出していない。実績もない。ただの4段である。それだけである。めざましい活躍もしていない。所詮素人である。だから、信念がない。他人になにを言われても、オノレの思うところを進んでいくというモノがない。千万人と雖も我征かんという確固たるものがない。その程度なのである。

だから感情がコントロールできない。

精神科医の和田秀樹先生の書籍「感情コントロール」(新講社)という本を昨日買った。108円であった。昨日全部読んでしまったのであるが。風呂の中で。

風呂を出てから、この本は風呂の中で読んでいるような本ではないと気がついたのである。

なにが一番堪えたかというと「なにを言われても『言い返さない』という作戦」という章に感心したからである。

ボキはできなかったし、今もできない。言い返してばかりいる。しかも瞬時に言い返してしまう。考えることがない。即応してしまうのである。これがイケナイことであったとは、サラサラ気がつかなかった。

即応体制をとっていると、某国のようになってしまう。今、非常に危うい危機を迎えている国である。アメリカの空母が接近しつつある国である。

即応、即時で臨戦態勢にあるらしい。

そんなんでいいのかと思う。

そして某国を批判する前に、ボキもまた同じようなスタイルで生きているなぁと(_ _ )/ハンセイしてしまったからでもある。

気をつけましょう。

くわばらくわばらである。

 

(^_^)ノ””””

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4月23日(日)のつぶやき

2017年04月24日 05時03分21秒 | とーま君の流儀2017
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知的エリートというのは、聞いている方のレベルを忖度してくれない(^_^)

2017年04月23日 08時24分54秒 | とーま君の流儀2017

ボキは、自分が出来損ないであるから、塾で苦労しながら英語も数学も国語もやっているのじゃよん(^_^)。

 

 

知人が中世史と某市との関連について、講演を行った。ちょっと前の記事で拙ブログでも取り上げてみた。重厚な人格者である。大好きな人物である。今は、ある大学の非常勤講師をしている。去年までは、別の大学で教授もなさっていたのだ。言わば、知的エリートというわけである。

ボキは、その講演会に行きたかったが、行けなかったので残念であったとその記事で書いた。知人は専門家である。学芸員もなさっていたからである。高校の教員から、博物館、最後は進学校の校長までなさった御仁である。

そしてその講演会であるが、講演内容を地元大衆紙が取り上げてくれた。なんと昨日で6回目になっている。県立図書館で全部有料コピーサービスを使って、ありがたくコピーさせていただいて拝読している。今日も、県立図書館に行ってみるけど。あったら、またコピーさせていただく。

さすがである。内容が充実している。

で、昨日ふと思った。これだけ充実していると、もしかして聞いている方々には難解であったのかもしれないということである。

どうやら大衆紙の書き方は、録音をそのまま記事にしているようだからそう思ったのである。

そうだとすると、かなりのレベルで話をしていたことになる。

実際その場にいたのではないから、なんとも言えないのだけれども。

人を見て法を説けと言われる。つまり、聞いている方の実態にあわせて話をせよということである。これは教育の基本である。教育というモノは、生徒の実態によって手段方法が違ってくるのだ。当然である。

ボキのようなだらしない、ただのアホが聞いていたらわかるように教えるのは至難の技である。まずは、机に座ることから始めなくてはならない。教科書もノートも持っていないから、準備をさせていかなくてはならない。それから初めて教育が始まる。要するに自堕落なのである(ボキのように)。

もしかして、知人の講演会はレベルの低い方はまったくおられなかったのではないかとも思った。これくらい難解な話だと、それなりのレベルでないと聞いていてもしょうが無い可能性もあったのではないかとふと思ったのである。

居住地でも類似の話があった。居住地に生まれ育って東大教授にまでなられた方が、県立の文化会館で記念講演をされたことがあった。宇宙物理学の話であったそうな。そうなというのは、こちらもボキは参加しなかったからである。去年亡くなった義母は、その東大教授が自分の家にも小中高時代に遊びに来ていたからというわけで、聞きに行ったのである。

帰ってきて「どうでしたか?」と聞いてみたら、案の定である。難しかったというわけである。当然だろうなぁと思った。話す方と、聞いている方のレベルが違いすぎるとこういうことになる。むろん、レベルにあわせて話せばいいではないかと言われるかもしれない。しかし、知的エリートというのは、あまり聞いている方にあわせてくれない。つまり、一方的なのである。

だから知的エリートになるわけである。

ボキは、自分が出来損ないであるから、苦労している。英語も数学も国語も非常に苦労しながら塾で教えている。未だに教材研究は欠かせないのである。だから惚け防止になるのである。

かえってありがたいのだ。そういうことが。

知的エリートでなくて良かったとしみじみ思う。

もっともそんなのは当たり前だのクラッカーである(ずいぶん古いCMですなぁ=誰も知らないだろうけど)。※前田製菓という会社があったのだ。てなもんや三度笠という番組であった

わはははっははははっはははは。

 

オシマイ。

 

さ、今日も身体を鍛えましょう。天気も良いし。ジジイの青春である。

(^_^)ノ””””

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4月22日(土)のつぶやき

2017年04月23日 05時04分12秒 | とーま君の流儀2017
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宝クジを買って当ててみたいが

2017年04月22日 13時52分48秒 | とーま君の流儀2017

夢のような話ではある(^_^)。

 

 

塾の研修会があって、13:30帰ってきた。全国チェーンの塾だから内容が充実していて、なかなか勉強になる。楽しみである。たまにしか会わない方もおられるからである。

で、今日は朝から亡くなった義母の家の雨戸を開けたり、ちょっと歩いたり、きままに過ごしていた。

むろんボキのことである。塾の研修会にも歩いて行った。往復でMetsで9800歩くらい歩いてしまった。午後からまたgymにも行くから、今日は何歩になるのだろうか。考えてみれば、もの凄い歩数を毎日歩いていることになる。

歩いているといろんなことを考える。たいしたことは考えないのであるが、たまには「お!これいい考えだ、メモしよう」となることもある。今日もあった。道ばたで立ち止まってメモした。思いつきである。アイディアとも言うけど。ま、ボキのことだからたいした思いつきではない。あたりめぇである。レベルに応じて思いついているからである。

酒を飲みに行きたいとか、そういうくだらないことではない(^_^)。

まともなことを思いついてしまったのである。

何か?

それは宝クジに当たったら、なにをするかということである。大笑いである。あり得ない思いつきだからである。当たるわけがないけど。

なんでそんな思いつきをしたか。

それは林覚乗というお坊さんが、実際億単位の宝クジを当てて、そのカネでもってご自分の寺院に仏像を作ってしまったという噂を知ったからである。ジャンボ宝くじで一億3千万当てたのである。以来、宝クジ和尚として有名になってしまったのである。だから、この和尚さん、あやかりたいという方から握手を求められているのだが(^_^)。

もし、ボキが当たったらなんと呼ばれるのであろうか。そう思ったのである。

高額当選でなくてもいい。ボキは、そういうカネがあったらまずは生涯学習ごっこのために使って、残りは寺院に寄付したい。ボキの入る予定の墓がある寺院にである。

夢のような話である。

当たり前である。

それはねぇ~~~~~。

「宝クジを買っていない」からである。

わははははっははははっはははっははは。

買わなきゃ、夢で終わりである。

夢は夢でいいのである。

それだけである。

それだけ。

 

(^_^)ノ””””

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4月21日(金)のつぶやき

2017年04月22日 05時06分12秒 | とーま君の流儀2017
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去年・・・・まだまだ修行中ですなぁ(^_^)

2017年04月21日 18時05分26秒 | とーま君の流儀2017
 
千葉市で沖縄料理の居酒屋にランチを食べに行って・・ついでにかなり歩き回って・・

やることがたくさんあって、楽しい・楽しい。実に充実したジジイ生活でございますよん。  県都千葉市をウロウロ歩き回って、ついでに「空海と密教美術」なる古本も買った......
 

 

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酔生夢死。酒に酔って、夢のように生きて死んじまったらアウトであった。それに気がついただけでも、ありがたいもんです

2017年04月21日 07時16分28秒 | とーま君の流儀2017

実践、実践あるのみである。独学で。実践がないから、すべてモノにならなかったのである。(_ _ )/ハンセイ。

 

 

すべての学習には独学がある。そう思う。師匠に教えていただいているから、できる・論文が書けるというような世界ではないだろう。確かにそうである。中国語がなぜできないのかと(_ _ )/ハンセイしていたら、いつも訪問している生涯学習のブログに書いてあった。筆者は、生涯学習で修士をとった時の、同級生である。現役のバンカーである。某国立大学で学生をやられていたときに、第二外国語で中国語を学んだのだそうな。大学だけでは足りず、別の教育機関にも出席して学ばれたそうな。

大学の先生の夜間セミナーにも行く、公民館でやっている中国語講座にも行く、必死でやったと書かれている。

「生涯学習の部屋」http://blog.goo.ne.jp/business-career/s/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E

 

これである、これ。訓戒とさせていただくつもりである。これくらいやらないとアカンとしみじみ思った。なんとなく勉強していればモノになるというような甘いもんではないからである。

語学は特にそうであろう。サボっていたら、結果は悲惨である。セミナーとか、居住地にある中国語講座に参加しているというだけで話せるようになるわけがない。

それはわかっているのだが、ついつい教えてくださっている先生の力量のせいにしたりしがちなのが、ボキである。バカなのである。普段が普段であるからだ。

酔生夢死。

夢を見ているようなもんじゃ。酔っ払っていることはないが。病気をして以来、アルコールとミニスカオネーチャンのいるような酒場には近づかないから。また病気になっちまうからである。もうICUは(^.^)ご(-.-)め(__)ん(-。-)ね(^.^)である。あんなところにはお世話になりたくないのじゃ。マジに。

ともかく、忘れるからいつも復習である。やるしかない。忘れてしまうことを前提にすべての生涯学習を構築していないとアカン。

前提にオノレはアホであるというもんがないとアカン。

アホだというのは、生まれた時からずっとわかっているのだが、どうも実践となると問題がある。続かないのである。生まれつきサボるのが得意だからである。脱力はボキに備わった能力なのである。一番の得意技。

実践ができないから、宗教も信仰できないのである。実践イコール信仰であろう。これはかの空海も言っておられる。

まだまだである。修行の片鱗もない。まったくない。スタートすらしていない。

まさに生涯学習ごっこである。ごっこなのである。気取っているだけである。アホのええカッコしいの気取り。

ぶっているだけである。

ううううううううううううううううううむ。

今日も学習塾にアルバイトに行く。

教えるためには、オノレに実力をつけないとアカンですなぁ。

まだまだでありまするよん。

 

(^_^)ノ””””

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4月20日(木)のつぶやき

2017年04月21日 05時04分02秒 | とーま君の流儀2017
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ボキはボキの道を行く。 キミはキミの道を行きたまえ、である。

2017年04月20日 13時10分43秒 | とーま君の流儀2017

イヤァ~~、人間が嫌いなわけではない。これでも気配り人間のつもりでいるのだが・・・・ウソっぽいけど(^_^)

 

 

こんなブログを書いているが、これでもけっこう気を遣っている。失礼があってはならないし、可能な限り配慮しているつもりである。知人も存在を知っているからだが。

これまで、いろいろなところに配慮して生きてきた。暴力的なことを言われてもじっと耐えてきた。だから定年退職してから爆発する高齢者も多いのであろうと思う。言いたいことは言い放題、聞きたくないことは一切聞かない御仁もおられるからである。

仕事人時代は、まずは組織が優先するからである。所属する組織である。

今のボキには、所属する組織がまったくない。あるわけない。所属したくてもなんにもないからである(^_^)。

だからと言って好き放題やっているわけではない。それは戒めているのだ。アルバイトだって、いつ馘首されるかわからんが、それでもやらせていただいているうちは全力でやっているつもりである。

それをもっと範囲を拡大していこうかと思っている。やはり社会とのつながりを持っていたいからである。まったく、毎日家に閉じこもっていたら病む。精神的に病む。それは間違いない。だから家にいないようにしているのである。することがなかったら、図書館に行く。歩いてである。Walkingの練習になる。健康にもなる。こんないいことはないではないか。

もっとも根底にあるのが、ボキは社交下手だというのがある。どうも、営業関係の仕事は向いていないような気がする。そうなのだ。冗談ひとつ言えないからである(ウソだけど)。

一人でじっとしていて、小説なんかを読んでいるのが好きであった。ガキのころから。だから病気になってしまったのである。じっとしていて動かなかったら、そりゃぁエコノミークラス症候群になっちまうではないか。

そこらへんの計算ができないんですなぁ。数学が弱いからだ。うん?違うな。言い方が。訂正しよう。→全部弱いか・・・・トホホ。

でもねぇ。

これからは、好きなことを書いていくつもりである。あまり他人に配慮していてもつまらない。プチ修行日記としたのはそういうことである。斜めに世の中を見て、疑っていく。そしていろいろと考える。むろん惚け防止のためである。健康にいい。

今さら万人に好かれよう、特に美人に好かれようと思っても無理である。無駄である。そんな努力はしないほうがいい。無駄なことはやらないこった。

ボキはボキの道を行く。

キミはキミの道を行きたまえ、である。

それでいいのだ、それで。

好きになって欲しいから生きているんではないからである。

今日は、某大学で授業をやってきた。数少ない収入源である。ありがたいものである。

だから記事のアップが今頃になってしまった。打鍵することでもって、アタマを眠らせないためである。

どんどんやって行きましょう。

さ、これからgymに行ってくる。歩かないと。病気になってしまったら怖いから。

 

(^_^)ノ””””

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4月19日(水)のつぶやき

2017年04月20日 05時06分44秒 | とーま君の流儀2017
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知人が地元で講演会をやっておられた。彼は、重厚な人格者である。行きたかったなぁ。

2017年04月19日 05時38分51秒 | とーま君の流儀2017

こっちは、軽いだけのジジイではあるが、知人のご活躍に(_ _ )/ハンセイしたですなぁ。

 

 

今日から新年度の古文書講座に行く。前回もあったのだが、欠席してしまった。旅に出ていたからである。倉敷に行っていた。それで、今日は新年度初めての古文書講座出席とあいなったわけである。

常連の出席者で、居住地の歴史講座の講師をなさっておられるような大先輩と映画会で先日お会いして、心配されちゃった。体調が悪いのか?と聞かれた。古文書講座を欠席したからである。体調を崩して某大学を中退したからである。退職してから入学した某大学大学院のことは知っておられたからである。まさか、遊びに行っていたとは言えねぇから黙って笑っていたけど。

講座と言えば、知人が**市の文化講座で講演をなさった。**市の地名にちなんだ中世文化の講演である。知らなかった。やっていたのを。同じ年齢であるが、あちらは都心部の大学で先生をやっておられる。しかも専門家である。千葉県の学芸員を長いことやっておられた。地元の新聞が取材なさっていて、経歴も書かれていた。たいしたものである。ボキなんか、経歴がない。まったくない。某大学中退くらいしか書けない。笑っちまうですな。まったく。

もっともあれか。そんな講演なんて話はあるわけがない。オファーが。なにをやっても素人であるから。

で、その知人の講演が地元大衆新聞に載っていたのである。県立図書館で発見した。講演内容も詳しく出ていたから、ありがたく拝見した。連続4回ほど報道されたから、さっそくコピーした。県立図書館だから有料である。一枚10円。こういうことの費用は惜しまない。もっとも、10円×4で40円である。こういうのは、費用とは言わんですなぁ(^_^)。

さすが専門家である。文献的にもしっかりした講演であったようである。聞いていないので、なんともわからないのであるが。時間があったのに行けば良かったと(_ _ )/ハンセイした。

チャンスはどこに転がっているかわからないものである。

一度逃したら、もう二度とチャンスは来ない。体験上そう思う。そして、チャンスが来たときにそれを選択するかどうかは、オノレの責任である。選択の連続が我が人生であったからと思う。

ホントウにそう思う。

あの時Aという選択をしたから、Bという結果があるということの連続であったと思う。Cという選択をしたら別の結果があったはずである。

運命であったのだなぁと思う。すべては、定められていたのかもしれないとシミジミ思うのである。あるいは「業」と言い換えてもいのかもしれない。こだわってきたものが、なんであったのかということである。こだわりの結果が今のボキを決定している。

どーも軽さを生き方の基盤に置いているボキだが、シミジミとした「重さ」もまた重要であると昨日は感じた。知人のご活躍に。ボキには無縁だろうけど。

わははっははははっははは。

 

さ、これから出かける。

 

(^_^)ノ””””

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4月18日(火)のつぶやき

2017年04月19日 05時03分09秒 | とーま君の流儀2017
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特殊清掃 A&Tコーポレーション 組織理念という動画を見させていただいて

2017年04月18日 08時49分51秒 | とーま君の流儀2017

特殊清掃という職種がある。

これまでもしかしたら、そういうお仕事をされている方々がおられるのではないのかと疑問に思っていた。

そしたら、ブログであったのである。

特殊清掃「戦う男たち」(サブタイトルとして「自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち」) というブログをこのところずっと読んでいた。読者登録もさせていただいている。

真実を知った。

映画「おくりびと」どころの話ではない。死を見つめて我々がなにを考えるか、感じるかということをこれでもか、これでもかと訴えてくださる。

宗教家はこのような仕事をされている方々のことをどう考えられるのかと思っている。動画をリンクさせていただいたが、この動画が比較的悲惨ではない。他の動画は、かなりなものである。

それにしても、特殊清掃「戦う男たち」の文章力は凄い!相当な文章力である。あらゆる文学者や、哲学者も太刀打ちできないのではないのか。

死を見つめて、生を考えるということがこれからの課題であるから、ボキは真剣なのである。

そう思う。

 

 

 

 

 

 

特殊清掃 A&Tコーポレーション 組織理念

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全51巻という長編時代劇小説を読了しそうだ。長かったなぁと思うケド。

2017年04月18日 08時03分19秒 | とーま君の流儀2017

所詮ヒマだからねぇ・・・・ま、昼寝しているよりはいいか。ボケないだろうから。

 

 

全51巻という長編時代劇小説シリーズである「居眠り磐音江戸双紙」が最終の51巻に入っている。ずいぶん長い小説であった。老人大学在学中に、同級生にこんなおもしろい小説があるよ、どうせ読まないだろうけどと言われてチャレンジしてみたのである。読まないどころではなかった。こんなおもしろい小説はなかった。楽しんだ。十分楽しんだ。

借りたのではなかった。図書館にナカッタからである。県立図書館の方には。後で知ったことだが、市立図書館にはあったらしい。全巻、自分で買ってしまった。むろん、古本チェーンである。一冊108円。それでも51冊である。年金生活者にとっては、大金が吹っ飛んだという意識である(^_^)。

ま、いいか。自分の本だから書き込みもしたから。

ストーリーの展開も面白かったが、剣術家である坂崎磐音の生き方が実に楽しかったのである。そうなのである。ボキも柔道家を目指してひたすら努力していた時期があったからである。ただの柔道4段でしかないけど。

それもICUに入ってからは、ずいぶん変わった。変わり果ててしまった。痩せたからである。痩せたのはかえって良かったのかもしれないけど。あのまま、柔道愛好家として好きなだけ酒を飲んで、デタラメな生活をしていたら今頃はきっとあの世に行っていたなぁ~~~と思う。

であるからして、この剣術家には興味があるのだ。生き方がさわやかである。しかも王者の剣を目指している。ただの武道家ではない。勝負のみにこだわり、テクニックや技術だけではなかったから、のめり込んでしまったのである。

九州の一藩で生まれ育った坂崎磐音が、江戸で剣術の修行をして藩に帰る。友人達とである。共に修行していた仲間たちとである。彼らが帰ったのは藩政改革のためであった。しかし、藩を牛耳っている家老達の陰謀でもって友人達が全部死んでしまう。そこから始まるである。しかも親友の妹である奈緒という美貌の女性と明後日祝言をあげるという前に、彼女の兄を藩命で討たなくてはならなくなってしまった。

ここからスタートしていく長い長い物語である。ま、所詮作り話であるけれども。設定が実に上手い。引き込まれてしまった。

引き込まれついでに、この小説に出てくる江戸時代の舞台設定にも興味がわき出てきた。だから、実際に江戸時代の地名探訪にも出かけてしまった。主人公坂崎磐音の許嫁であった奈緒が、吉原に身売りして太夫にまでなったからである。吉原探訪も日帰りでツアーをやってくれた旅行会社があったからである。歩いて探訪するのである。専門ガイド付きである。ありがたいものである。

この小説、江戸幕府老中の田沼意次との戦いも伏線としてある。こちらも楽しかった。政治家と剣術家の戦いではない。政治を通した戦いである。武道としての戦いではない。

ま、所詮ヒマだから読んでいたのだ。

昨日も、今日も、明日もヒマである。

 

今日は朝から大雨が降っている。県立図書館にでも行ってくる。あ、その前にショッピングセンターで歩いてこようっと。なんもやることがないから。

わはっはははっはははっはあっは。

 

(^_^)ノ””””

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/