自己拘束
2014年5月18日(日)
長い引用です。5月16日の朝日新聞に載った石川健治東京大学教授のコメントです。集団的自衛権に関するものなんですが、私は今までで一番説得力を持つ理論のような気がして、覚えたいがために新聞をコピペするのではなく、自ら入力しました。
(表題)「もつれた糸引きちぎる暴走」
集団的自衛権を、あたかも個別的自衛権の自然な延長線上にあるかのように説明するのは、フェアーではない。国連憲章第51条の起草過程で、米国がねじ込んできた定式であり、その実体は攻守同盟である。「同盟」は明確に「敵」の存在を前提にしているという点で、急迫不正の侵害に対する個別的自衛権とは、そもそも論理構造が異なっている。
また、憲法9条が想定する国際関係観からの大転換であり、ひとたび渡れば引き返せないルビコン川を渡るにひとしい選択である。これだけ大きな選択をするのであれば、きちんと手続きを踏むのは当然だ。
それにもかかわらず、現政権は、まず憲法改正の発議要件のハードルを下げようとし、それが難しいとみれば、政府解釈の変更という便法を用いようとする。あるいは、自衛力不足を米軍によって補充すること自体を否定しなかったと言うだけの「砂川判決」を論拠にして正当化を試みたり、「限定容認」のレトリックによって事柄の重大性を糊塗しようとしたりする。そうした政府の姿勢は、憲法が前提とする立憲デモクラシーのあり方に反している。
近代的な意味での立憲主義は、集権化された国家権力を前提としており、本来は力で国民を圧倒できるはずの統治権力が、自ら進んで自分を縛ることによって成り立っている。そのことによって、個人の権利は保障され、国家間の約束も成立する。さらに、統治権力を分割して、特定の権力に「民意」を独占させないようにするとともに、それぞれを絡み合わせることで、権力の暴走にブレーキがかかるようにする。これが立憲デモクラシーの考え方だ。
しかし、現在の政府は、もつれた糸を引きちぎり、暴走してはいないか。特に、政府の憲法解釈という、自らに課した義務づけから自由になろうと、内閣法制局の長官を「お友達」に代えてしまったこと。これは、安倍政権の信頼性を大きく傷つける、取り返しの付かない失策であった。
こういう政権の姿勢が、例えば、特定秘密保護法制定のおりには、それがどこまでも拡大解釈され、ものが言えない社会になるのではないか、という大きな不信感をうんだ。集団的自衛権の行使容認にも、同様の不安が広がっている。
それらは、安倍政権が内外に示した反立憲的な姿勢によって自ら招いた事態であり、もはや、このタイミングでルビコン川を渡る資格は、この政府にはないのではないか。
石川氏は、「立憲デモクラシーの会」の呼びかけ人として名を連ねています。石川氏自身の言葉によれば、これまで政治的な動きをするようなことはしなかったということです。今回の解釈改憲に危機感を持って立ち上がったということでしょう。
石川氏が主張する「自己拘束」の考え方は非常に説得力があると思います。
https://twitter.com/sanze82/status/462239555685322755
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