水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

11月9日

2008年11月09日 | 日々のあれこれ
 今日は数人休みがいる。
 せっかく昨日教わったことが定着できない。これこそが課題なのだが、解決の手段がみえない。
 セクション練、合奏、分奏で「民衆を導く自由の女神」をつめていく。
 打楽器の先生からもいろいろヒントをいただいた。
 来週は、譜面を音にするレベルではなく、音楽的にしていきたい。
 合奏のあいまに学年だよりを書いた。
 最近なんかいいこと書いてる気がするので、一部載せておきます。

「3学年だより」より
 ずいぶん前に進路講演会にお招きした大月隆寛先生(民俗学)が、こうおっしゃっていた。
 「偏差値の高いヤツには責任がある」
 どういう文脈だったのかは今忘れているのだが、「人の上に立つ可能性をもつ人間は、その能力を自分以外の人のために役立ててなければならない」という意味ではなかったかと思う。
 みなさんは、「偏差値が高い」側の人間だ。
 「模試の偏差値ぜんぜんあがんないっスよ」という人も多いだろうが、そういうことではない。 同学年の日本人の中で、みんなはどういう位置を生きているのか、ということだ。
 今の模試の偏差値がふがいないものであったとしても、でも、がんばればそれなりの大学に行くだけの力はもっている。
 それなりの会社に入れる可能性も、公務員としての働き場を手に入れられる可能性も、中学校時代の同学年のほかの生徒よりは高いはずだ。
 将来、社会に出たとき、どちらかといえば「上流」に近い方に位置できる可能性が高い。
 社会的地位が高いと言われる職業につける可能性が高い。
 ただし、社会的地位の高さとは、収入の多さや、人脈の華やかさで担保されるものではない。
 どれだけ自分以外の人のために役に立っているかということである。
 残念ながら、このことをわかっていない大人も今の日本にはたくさんいる。
 偏差値高い側にいるみんなには、できることなら、社会的地位の高い職業についてほしい。
 そして、その本来の働きをして、世のため人のためになって働いてほしい。
 そうなったときには、それこそが生き甲斐だと感じられるナイスガイになっていると思う。
 魅力的な女性も自然と身近にいるようになる。
 本来の意味を忘れると、「金目当てか!」みたいな娘しかよってこないよ。
 下世話な話になってしまい申し訳ない。
 しつこいけど、大学というのは学問研究の場である。
 学問研究の場に数年間も身をおけるということは、それだけでとんでもなく「上流階級」だ。
 上流階級に属することができた人々は、恵まれた自分の環境を保つことを人生の目標とすべきではなく、より多くの人が幸せになることをしでかそうと考えるべきだ。
 そうでなかったら、ただの金持ち、ただの成金だ。
 実際に、欧米の本当の上流階級には、自分の財産のほとんどを奨学金などの形にして寄付してしまう文化がある。
 学問研究の道へ、つまり「上流階級」への道へ歩み出そうとしている人々が「格差社会」の現実を実感したなら、それをなんとかできないかと発想して当然なのだ。
 それが学問しようとする人の考え方である。
 大学入試で「格差」「階層化」について論ぜよと問われた時、だから答えの方向性は決まっている。
 現状をそのまま受け入れよう、諦めようとする姿勢は、学問とは逆の方向性ということになる。
 現状のままでいいのなら、経済学や政治学など学ぶ必要がないではないか。
 理学や工学の研究など必要なくなってしまうではないか。
 自分のためだけの研究なら、美少女フィギュアを部屋にかざって満足しているのと同じだ。
コメント
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