学年だより「調教作業(2)」
たとえば東大に入学できる高校生は約3200人。しかも毎年だ。
何百年に一人の作家かもしれない村上春樹氏の「才能」が「恵まれていないもの」のだとしたら、受験勉強に必要な「才能」など、ほとんどなくていいようなものではないだろうか。
類いまれな才能を有していたとしても、それを形にし続ける力をもたない場合、才能は発揮されずに終わる。結果として、その人は才能がなかったということになる。
「やればできる」という言葉を私たちは好んでつかいたがるし、たしかにそうなのかもしれないが、やらなければできないし、何も生み出さない。
逆にきわめて少量の才能しかなくても、とにかくやり続け、やり続けることによって集中力と持続力を養い続けていけば、才能の不足分は十分に補いうる。
~ 才能にそれほど恵まれていない というか水準ぎりぎりのところでやっていかざるを得ない 作家たちは、若いうちから自前でなんとか筋力をつけていかなくてはならない。彼らは訓練によって集中力を養い、持続力を増進させていく。そしてそれらの資質を(ある程度まで)才能の「代用品」として余儀なくされる。しかしそのようになんとか「しのいで」いるうちに、自らの中に隠されていた本物の才能に巡り会うこともある。スコップを使って、汗水を流しながらせっせと足元に穴を掘っているうちに、ずっと奥深くに眠っていた秘密の水脈にたまたまぶちあたったわけだ。まさに幸運と呼ぶべきだろう。しかしそのような「幸運」が可能になったのも、もとはといえば、深い穴を掘り進めるだけのたしかな筋力を、訓練によって身につけてきたからなのだ。 (村上春樹『走ることについて語るときに僕が語ること』文春文庫) ~
作家であってさえ、集中力と持続力は才能の「代用品」になる。
なんとか「しのいで」いくこと。とりあえず訓練していくこと。穴を掘っていくこと。
それは、隠されているかもしれない自分の才能にたどりつくための「筋力」づくりなのだ。
毎年何千人もの人間がたどりつくレベルだったら、「本物の才能」など必要ない。
ただ、確認しておきたいが、みなさんには勉強の才能はあると思う。
え? と思っただろうか。だったら苦労しないよ、と。そんなことはない。
勉強の才能とは、理解の早さや、問題を見た瞬間に解法を思いつける洞察力とかではない。
机に向かってかりかりと字を書き、電車の中で単語をおぼえ、プリントをファイルしていくことができるのは、まちがいなく勉強の才能があることの表れだ。
それは決して万人に与えられた能力ではないのだから。
ほんのわずかでもそれがあることさえわかれば、後は「筋力」の問題だ。
腕立てや腹筋をするように、毎日少しずつ集中して机に向かうことを持続していけばいい。
それくらいの運動的鍛錬ができなくては、自分のやりたいことには近づけない。