漱石「こころ」の教科書に載っている部分は、「私(先生)」の遺書である。
晩年(といっても、三十代の終わりだけど)出会った若者に、自分が学生の頃にこんな過ちを犯した、その罪の意識をずっと持ち続けていると延々書き綴っている。
その文章は、受身表現の連続だ。
友人のKが「私」にお嬢さんへの恋心を打ち明けた場面。
そのときの驚きを、「私」はこう書く。
~ 私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。
すぐしまったと思いました。先を越されたなと思いました。
私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念にたえずかき乱されていましたから、
私の頭は悔恨に揺られてぐらぐらしました。
そのうち私の頭はだんだんこの静かさにかき乱されるようになってきました。
私は永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました。 ~
仮に「道ならぬ恋」におちたとしよう。
主語は自分でもあなたでも彼女でもいい。川谷さんでも橋之助さんでもいい。
それを非難されて、涙ながらにこう語ったとする。
彼女の魅力に心を奪われてしまったのです。
彼の魔法棒のために心がかためられてしまいました。
もちろん悔恨に揺られてぐらぐらしました。
ある意味、彼女に祟られたようなものなのです …
一瞬、そっか、それじゃしょうがないかな、悪いのは君じゃなく彼女の魅力なのかもしれないね … って思いかけるかもしれないけど、ちょっと待てい!、自分のせいやないかい! と言わざるを得なくなる。
受身表現とは、かくも巧妙に自分の責任性を減じさせるはたらきをもつ。
と考えると、「こころ」の「私(先生)」は、罪の意識を持ち続けていると言いながら、それがどこまで本当のものなのかという問題が生まれる。
Kの自殺を、「私に裏切られて落ち込んだから」と短絡的に読む生徒さんはさすがに少ないが、「私」については慎重にならないといけないだろう。