水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

スタンドアップ!(3)

2018年08月03日 | 学年だよりなど

学年だより「スタンドアップ!(3)」


 今まで自分は逃げてばかりだった。嫌なこと、辛いこと、苦しいことがあるとそこから逃げてばかりいた。そんな自分が嫌いだった。
 勝ち負けでもなく、損得でもなく、一度でいいから自分の本気を出し尽くしてみたい。
 娘に、そんな姿を見せてみたい。


 ~ あたしの手を握った唯愛が、ママ頑張ってと囁(ささや)いた。あたしはその場にいた全員の顔を見つめた。                        
 ずっと友達がいなかった。一人きりだった。何にもいいことがない、つまらない人生だと思ってた。
 でも、違った。ここにいる人たちはみんな友達で、仲間で、家族だ。
 友達ができないのは、人のせいだと思ってた。誰も心を開いてくれないからだって。
 そうじゃなかった。あたしが自分の心を閉ざしていたから、友達ができなかったんだ。
 みんながあたしを信じてる。そして、あたしもみんなを信じてる。
 美闘夕紀はとてつもなく高い山だ。越えることなんて、絶対にできない。だけど、最初から諦めているのと、爪跡だけでも残そうとするのは違う。
 何もできないかもしれない。だけど、パンチを一発当てるまで諦めなければ、その先に見える世界は、違った風景になるんじゃないか。
 あたしは唯愛、望美ちゃん、会長、そして沖田の顔をもう一度見つめた。信じて、応援してくれる人がいる。ここがあたしのホームだ。
 ホームから逃げることはできない。結論はひとつだった。
「やります」
 電話するぞ、と会長がスマホの画面にタッチした。10月26日、午後6時、あたしは美闘夕紀とのIBZ世界女子フライ級タイトルへの挑戦を決めた。 (五十嵐貴久『スタンドアップ!』PHP) ~


 愛の心のなかに、試合開始のゴングが鳴り響いた瞬間だ。

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スタンドアップ!(2)

2018年08月03日 | 学年だよりなど

学年だより「スタンドアップ!(2)」


 もとより、女子のプロボクサーは数が限られている。
 ライセンスを持ち、試合をしたいと考えている選手は、階級ごとになれば全国で数人レベルだ。
 だから、本当に試合に出る気持ちまではなかった愛のもとにも、オファーは次々と届いた。それは逆に男子にくらべて恵まれていることだという。
 ジムの会長から頼まれて臨んだ初戦はボクシングにならなかったが、たまたま当たったパンチでポイントをとり、勝つことができた。2戦目はインターハイ優勝経験のある女子大生に、1Rの1分ももたずにKO負けした。
 フェザー級の愛より5㎏以上低いフライ級には、美闘夕紀というスター選手がいた。オリンピック準優勝、プロ転向後に五輪決勝で敗れた選手にリベンジしたあとは、もう勢いは止まらない。
 あまりの強さに、国外にも相手選手を見つけるのが難しいくらいだった。
 その美闘選手から、対戦のオファーが届く。
 年末恒例の格闘技イベントの一試合として、美闘のタイトルマッチが予定されていた。
 その相手が薬物違反で来日不可能になった。大晦日のイベントの穴をあけるわけにはいかない。
 試合だけは成立させないとチケットの払い戻しなど大変な事態になる。しかしそんな急な話で、まして美闘と対戦したい選手などいない。この際、相手は誰でもいい、体重の重いクラスでも … 、というのがそのオファーの実態だったのだ。
 「そんなの出れるわけない、第一減量がムリ」と愛は思う。
 しかし心のどこかで、どんな事情であれ、有名選手とタイトルマッチができるなんて、誰にも与えられるチャンスではないという声がする。


 ~ だけどね、と会長が笑みを浮かべた。
「1ミリでもやりたいって言うんなら、おれがセコンドにつく。できることは何でもやってやる。おれの本心を言ってよけりゃ、一発でいいから、美闘夕紀をぶん殴ってほしいって思ってるよ。小暮会長も、美闘本人もそうだけど、あいつらは強けりゃ何でもありだと思ってる。弱小ジムや、そこに所属している選手のことなんか、何も考えちゃいない。そりゃ違うんじゃねえか。なめるのもいい加減にしろよって。もしやるんなら、ジムを挙げて応援するぜ」
 練習は自分が全部見てやる、と沖田が言った。
「減量しながらでも、できることはいくらだってある。危険な相手だが、ボクシングってのは、もともとそういうもんだ。まずいと思ったら、すぐタオルを投げる。お前に怪我なんかさせない」 ~


 美闘が絶対の王者であることはまちがいない。100%負ける。
 でも … 、一発でいい、パンチを当てることができたなら、自分のなかで何か変わる気がする。

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スタンドアップ!

2018年08月03日 | 学年だよりなど

学年だより「スタンドアップ!」


 夫の暴力が娘の結愛にまで及ぶようになり、沢口愛は逃げることを決意した。
 警察に相談した時も助けてはもらえなかった。「民事不介入といって、直接どうこうすることはできない」というのが言い分だった。かわりにと紹介された民生委員が家を訪れた日の夜のことは忘れられない。営業職できたえた口先と笑顔で民生委員を言いくるめて帰らせた後、夫は激変する。このときばかりは死ぬかと思った。限界だった。
 看護士をしている愛は、病院で知り合ったソーシャルワーカーに手助けしてもらい、家を飛び出す。まったく土地勘のないところに住み、娘はしばらく学校へ行かせないことにする。そこから居場所が探り当てられるからだ。愛自身も同じ職種につくわけにはいかないし、本名も名乗れない。
 新大久保の中古アニメショップでパートをはじめた。
 そこで親しくなった同僚のモモコに、近くにあるボクシングジムに行こうと誘われる。ダイエット目的だと言う。会費無料サービス期間だけでいいからと、無理矢理誘われて通い始めたボクシングジムだったが、いつのまにか愛の方が真剣に取り組んでいた。
 友達のできなかった愛は、小学校や中学校でドッジボールをバレーボールをした記憶がないし、そもそも運動の経験がない。しかし、親切なジムの人たちにかこまれて、練習に身が入る。
 学校に通わせられない娘の結愛をつれてきて、遊ばしておけるのも助かった。
 本格的な動きを学びはじめると、プロのライセンスをとってみたいとまで考えるようになった。


 ~ 動かすのは手だけじゃない、と沖田がコーナーポストを叩いた。
「頭もだ。どこからパンチが飛んできてもいいように、常に見ていろ。フットワークも忘れるな。足を使え」
 ボクシングは単なる殴り合いじゃない。体全体を使って、総合的に戦う。本当に使うのは体じゃなくて脳だ、と沖田は繰り返し言っていた。
 うまく頭と体を使えば、相手のパンチをすべてガードできる。そうすればダメージはない。その意味で、チェスや将棋のように、頭脳で戦うゲームと近いところがあった。
 そして、プロテストのスパーリングの目的は、相手を倒すことじゃない。2ラウンド、4分間をフルに戦える体力があるか、攻撃、防御、それぞれ試合で通用するだけの能力があるかどうか、そこを見極められる。
 このひと月半、それだけを考えて練習を重ねてきた。強い弱いじゃない。自分に試合ができる力があるかどうか、それを見せなければならない。その準備はしてきたつもりだ。 (五十嵐貴久『スタンドアップ!』PHP) ~


 「○○は、単なる○○じゃない」は、他のスポーツにおきかえても成立する。
 受験勉強ならなおさらだ。大学入試は、その先に本格的な学問をする下地ができているかどうかだけを確認するためにある。人並みはずれた能力や、突飛な発想力が求められるのではない。
 大前提を理解してはじめて、やるべきことが決まってくる。

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