水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

急転直下

2019年11月01日 | 大学入試
明日、朝日新聞が書きそうなことを書いてみた。


 来年から大学入試に導入される予定であった、英語の民間試験利用が延期されることになった。これまで、様々な批判を受けながらも、予定通り実施すると萩生田文科大臣は答えていたが、事態は急転したかっこうだ。高校現場では、今月一日から民間試験利用のための「共通ID」取得申請がはじまるところだった。多くの受験生、つまり今の高校二年生は、先月のうちに来年の「英検」の予約金3000円を納入している。大学も、民間試験の成績をどう判定に用いるかを決定して、受験生に通知していた。すでに大きく進行していたのだ。しかし、現実には問題が山積し、解決されないままでもあった。

 最も大きな問題は、受験機会の公平性が確保されていない点だ。そもそも、民間の英語試験は受験できる場所がかぎられる。最も受験者の多い実用英語技能検定試験、いわゆる「英検」でさえ、二次試験レベルになれば実施されない県がある。もともと受験料が高額なうえに、宿泊をともなわなければ実施会場に行けない生徒は、受験料以外に、交通費や宿泊費用もかかる。逆に都市部に暮らす、裕福な家庭の受験生であれば、練習をかねて複数回受験することも可能だろう。このような都市部と地方との大きな格差をどうすればいいのか。誰もが疑問に思い、受験生をもつ親であれば不安に感じるのは当然だ。そのことを尋ねられた萩生田文科大臣は、それぞれの「身の丈」に応じて対応してほしいと述べた。格差をなくすのが仕事である大臣の発言としては、あまりに不用意であったと言わざるを得ない。期せずして、大きな反発をうみ、今回の急転直下の決定となったということだろう。

 今回の決定は急だったかもしれないが、入試制度の改革自体は何年もかけて準備されてきたことであった。安倍首相の諮問会議として設置された「教育再生会議」が、高校と大学の接続のあり方の見直しを答申したのは、2013年である。グローバル化が進む社会に対応できる人材の育成のために、英語教育のあり方が問題となり、「読む」「書く」に偏重する大学入試を改める方向に大きく舵が切られることになった。そして「話す」「聞く」の技能は、民間の英語試験で測る方向で話がまとまる。

 教える側である高校も、選抜する側の大学でも、実施に対しては強い危惧が表明された。しかし、大学は国からの補助金交付というという大きな足枷をもつ。いわんや高校をや。この流れはとめるべくもなく、実施自体は動かしようがないという流れのなかで、関係各所で工夫が重ねられた。方向性が定まって数年、当初心配された様々な問題は解決に向かっていたのだろうか。実施が近づき、当事者性をもって技術的な問題が検討されればされるほど、あまりにも杜撰なままであることにみなが気づくことになる。

 民間試験の利用は、新年度からの実施が見送られ、2024年実施を目指すという。つまり自信をもって実施できる体制になるまで、今時点から4年を要するということであり、その状態でありながら来年見切り発車しようとしていたわけだ。ここにくるまでに、どこか立ち止まって考え直すタイミングはなかったものか。現状を見る限り、文科省には新制度を実施できる体制が整っていなかったのだ。まさに今の教育行政の「身の丈」に合う結果となったと言えまいか。
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習慣化(3)

2019年11月01日 | 学年だよりなど
  2学年だより「習慣化(3)」


 小説家の村上春樹氏は、走ることを習慣にしている。
 小説家としてデビューしたのが30歳。33歳でランニングを始め、以来30年以上にわたり、毎日1時間、平均で一日約10㎞走ることをかかさないという。現在も冬はフルマラソン、夏はトライアスロンに挑み、もちろん作品も書き続けている。


 ~ 日々走ることが僕にとってどのような意味を持つのか、僕自身には長い間そのことがもうひとつよくわかりませんでした。毎日走っていればもちろん身体は健康になります。脂肪を落とし、バランスのとれた筋肉をつけることもできますし、体重のコントロールもできます。しかしそれだけのことじゃないんだ、と僕は常日頃感じていました。その奥にはもっと大事な何かがあるはずだと。でもその「何か」がどういうものなのか、自分でもはっきりとはわからないし、自分でもよくわからないものを他人に説明することもできません。
 でもとりあえず意味が今ひとつ把握できないまま、この走るという習慣を、僕はしつこくがんばって維持してきました。三十年というのはずいぶん長い歳月です。そのあいだずっとひとつの習慣を変わらず維持していくには、やはりかなりの努力を必要とします。どうしてそんなことができたのか? 走るという行為が、いくつかの「僕がこの人生においてやらなくてはならないものごと」の内容を、具体的に簡潔に表象しているような気がしたからです。そういう大まかな、しかし強い実感(体感)がありました。だから「今日はけっこう身体がきついな。あまり走りたくないな」と思うときでも、「これは僕の人生にとってとにかくやらなくちゃならないことなんだ」と自分に言い聞かせて、ほとんど理屈抜きで走りました。その文句は今でも、僕にとってのひとつのマントラ(注:神や仏への祈りと誓いの言葉)みたいになっています。「これは僕の人生にとってとにかくやらなくちゃならないことなんだ」というのが。 (村上春樹『職業としての小説家』新潮文庫) ~


 功成り名を遂げた方々の本を読んでいると、不思議な共通点に気づく。 
「何か」をなしとげる人は、毎日「別の何か」を継続して行っていることだ。
「別の何か」は、特殊なことではない。
 経営者に多いのは「毎日仏壇の水を替え、手を合わせる」習慣だ。
 日記をつける、寝る前に本の一節を読む、トイレ掃除をする……。
 表面に現れてこない習慣は、きっと他にもいろいろあるにちがいない。
 中央大学学生課に長く勤められた高梨明宏氏は、「毎日お手伝いをしている生徒は、必ず合格する」と述べていた。「風呂掃除の係」「皿洗い担当」というような家での仕事を。
 学生、スポーツ選手、企業など様々な分野で目標達成のコンサルタントを行っている原田隆史氏も、「目標設定用紙」のなかに、毎日続ける習慣を記入する欄がある。
 「何か」を達成するためには、入れ物を育てなければならない。
 「身体」という入れ物を。それはたぶん土のようなもので、土を育てる働きをするのが「別の何か」なのではないだろうか。
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