2学年だより「型を忘れるための型」
勉強ができる人、試合に勝ったアスリート、ビジネスで大成功した社長に共通するのは、「かわったことはやってません」というワード以外にもある。
そのやり方だ。「たいしたことはやってない」という言葉がつい出てしまう原因でもあるが、基本をやりこんでいることだ。
勉強なら、できることとできないことを区分けして、できないことができるようになるまで反復練習する、その学習内容が、いつしか無意識レベルにおとしこまれていく……といった過程を面倒くさがらずにやることが基本だ。
いま頭の中でかけ算九九を思い出しながら計算してる人はいないだろう。スポーツの動きも、商売の基本も、いちいち頭で考えずにできるレベルになってないといけないことがある。
チェスと太極拳という、まったく異質(に見える)二つの世界で頂点を極めた人がいる。
名前はジョッシュ・ウェイツキン。若くしてチェスのチャンピオンになった彼は、映画「ボビー・フィッシャーを探して」(1993年)でも描かれた。一方、太極拳の推手とよばれる組み手の大会でもチャンピオンとなる。ジョッシュは、どちらも「上達の理論」は同じだと言う。
~ チェスと武術の両方において、僕の成長に不可欠だったある一つの学習方法がある。僕はその学習方法を、数を忘れるための数、または、型を忘れるための型と呼んでいる。これは何を学習するにも応用できるものだが、ここではチェスを例に、その基本的なプロセスを説明しよう。
チェスの学習者は、よりハイレベルな技術を習得するための土台作りとして、まずは基本を徹底的に学ばなければならない。エンドゲーム(終盤戦)、ミドルゲーム(中盤戦)、オープニングにおける戦い方の原理を学ぶということだ。最初のうちは、一つか二つの重要要素しか同時並行で熟考できないが、ある程度の基礎学習期間を経ると、より多くの原理が統合され、一つの流れとしてとらえることのできる直感が養われる。最終的に、こういった基本原理の数々は自分の奥深くに吸収され、もはや意識的に考えずともしっかりと自分の中で根付いたものとなる。このプロセスはチェスへの理解が探まれば深まるだけ、その深みに応じて繰り返され続ける。
優れたピアニストやバイオリニストは、名演奏の最中に音符の一音一音を別個に考えなくても、しっかりと完璧な音を出すだろう。むしろ、べートーベンの第五を演奏しながら「ド」の音について考えたりしたら、流れを見失い、演奏の妨げになってしまう。たとえば初心者向けのチェス教本を書くのが難しいのも、そうやって意識下に埋め込まれていたあらゆるものを掘り起こさなければならないからだ。 (ジョッシュ・ウェイツキン『習熟への情熱』みすず書房)~
型を学ぶ目標は、それを忘れるにある。そうなって初めて身に付いたという。
周囲から見れば驚くようなプレーも、差し手も、技も、考え方も、生き方も、長年の基本の繰り返しによって意識化に埋め込まれたものが、何でもないことのように表面化したものだ。
勉強ができる人、試合に勝ったアスリート、ビジネスで大成功した社長に共通するのは、「かわったことはやってません」というワード以外にもある。
そのやり方だ。「たいしたことはやってない」という言葉がつい出てしまう原因でもあるが、基本をやりこんでいることだ。
勉強なら、できることとできないことを区分けして、できないことができるようになるまで反復練習する、その学習内容が、いつしか無意識レベルにおとしこまれていく……といった過程を面倒くさがらずにやることが基本だ。
いま頭の中でかけ算九九を思い出しながら計算してる人はいないだろう。スポーツの動きも、商売の基本も、いちいち頭で考えずにできるレベルになってないといけないことがある。
チェスと太極拳という、まったく異質(に見える)二つの世界で頂点を極めた人がいる。
名前はジョッシュ・ウェイツキン。若くしてチェスのチャンピオンになった彼は、映画「ボビー・フィッシャーを探して」(1993年)でも描かれた。一方、太極拳の推手とよばれる組み手の大会でもチャンピオンとなる。ジョッシュは、どちらも「上達の理論」は同じだと言う。
~ チェスと武術の両方において、僕の成長に不可欠だったある一つの学習方法がある。僕はその学習方法を、数を忘れるための数、または、型を忘れるための型と呼んでいる。これは何を学習するにも応用できるものだが、ここではチェスを例に、その基本的なプロセスを説明しよう。
チェスの学習者は、よりハイレベルな技術を習得するための土台作りとして、まずは基本を徹底的に学ばなければならない。エンドゲーム(終盤戦)、ミドルゲーム(中盤戦)、オープニングにおける戦い方の原理を学ぶということだ。最初のうちは、一つか二つの重要要素しか同時並行で熟考できないが、ある程度の基礎学習期間を経ると、より多くの原理が統合され、一つの流れとしてとらえることのできる直感が養われる。最終的に、こういった基本原理の数々は自分の奥深くに吸収され、もはや意識的に考えずともしっかりと自分の中で根付いたものとなる。このプロセスはチェスへの理解が探まれば深まるだけ、その深みに応じて繰り返され続ける。
優れたピアニストやバイオリニストは、名演奏の最中に音符の一音一音を別個に考えなくても、しっかりと完璧な音を出すだろう。むしろ、べートーベンの第五を演奏しながら「ド」の音について考えたりしたら、流れを見失い、演奏の妨げになってしまう。たとえば初心者向けのチェス教本を書くのが難しいのも、そうやって意識下に埋め込まれていたあらゆるものを掘り起こさなければならないからだ。 (ジョッシュ・ウェイツキン『習熟への情熱』みすず書房)~
型を学ぶ目標は、それを忘れるにある。そうなって初めて身に付いたという。
周囲から見れば驚くようなプレーも、差し手も、技も、考え方も、生き方も、長年の基本の繰り返しによって意識化に埋め込まれたものが、何でもないことのように表面化したものだ。