四段落(7~13) 李徴の詩業
7 袁《さん》はじめ一行は、息をのんで、叢中の声の語る不思議に聞き入っていた。声は続けて言う。
8 ほかでもない。自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところの詩数百編、もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在ももはやわからなくなっていよう。ところで、そのうち、今もなお記誦せるものが数十ある。これを我がために伝録していただきたいのだ。なにも、これによって一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、〈 産を破り 〉心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。
9 袁《さん》は部下に命じ、筆を執って叢中の声に従って書き取らせた。李徴の声は草むらの中から朗々と響いた。長短およそ三十編。格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁《さん》は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。
10 旧詩を吐き終わった李徴の声は、突然調子を変え、〈 自らを嘲る 〉がごとくに言った。
11 恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身となり果てた今でも、おれは、おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。(袁《さん》は昔の青年李徴の〈 自嘲癖 〉を思い出しながら、哀しく聞いていた。)そうだ。お笑いぐさついでに、今の思いを即席の詩に述べてみようか。この虎の中に、まだ、かつての李徴が生きているしるしに。
12 袁《さん》はまた下吏に命じてこれを書き取らせた。その詩にいう。
偶 因 狂 疾 成 殊 類 災 患 相 仍 不 可 逃
今 日 爪 牙 誰 敢 敵 当 時 声 跡 共 相 高
我 為 異 物 蓬 茅 下 君 已 乗 軺 気 勢 豪
此 夕 渓 山 対 明 月 不 成 長 嘯 但 成 嘷
13 〈 時に、残月、光冷ややかに、白露は地にしげく、樹間を渡る冷風はすでに暁の近きを告げていた。 〉人々はもはや、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄幸を嘆じた。李徴の声は再び続ける。
語釈 息をのんで … 呼吸をするのも忘れるほど緊張して。
叢中 … 草むらの中。
世に行われておらぬ … 世間の人々に知られていない。
格調高雅 … 体裁や品格、調子が高貴で優雅であること。
意趣卓逸 … 詩の内容や趣が特に秀でていること。
長安風流人士 … 長安に住む風流を理解する文化人。
詩 たまたま狂気に冒され獣となった
災いは重なり逃げ出すことはできない
今日、この私の爪や牙には、誰もかなわない
その昔、私も君も共に名声が高かった
私は獣となって草むらの中におり、
君は立派な乗り物に乗り意気盛んである
君に会えたこの夕べ、谷や山を照らす明月に向かっても
長嘯することはできずただ咆哮するばかりである
Q21 「産を破り(財産を失い)」とは、具体的にはどういうことか。30字以内で述べよ。
A21 自分の詩業のために役人をやめ、生活が困窮したこと。
Q22 李徴の詩を聞いた際の袁《さん》の感想を抜き出し、最初と最後5字ずつを記せ。
A22 なるほど、 ~ ではないか
Q23 「自らを嘲る」とあるが、李徴が「自らを嘲」っている表現を11段落から3箇所抜き出せ。
A23 こんなあさましい身
嗤ってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。
お笑いぐさついでに、
Q24 李徴の詩に表現されている 対比的内容を指摘せよ。
A24 李徴自身の現在と過去
李徴と袁
Q25 「時に、残月、光冷ややかに、白露は地にしげく、樹間を渡る冷風はすでに暁の近きを告げていた。」という情景描写は、どういうことの象徴と考えられるか。
A25 李徴の身に降りかかった冷酷な運命
心 後代に伝わらないでは、死んでも死にきれない
∥
己への詩へ自負(自尊)
↓
行 自作の詩の伝禄を依頼する
心 自作の詩に対する批判を回避しようとする思い
↓
行 李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲る(自嘲)
李徴の詩
「此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷」
∥
虎になった運命はどうすることもできないという嘆き
Q26「狷介」かつ「自ら恃むところすこぶる大きい」李徴なのに、なぜ「自嘲癖」をもっていたのか。60字以内で説明せよ。
A26 自尊心が高いがゆえに、万が一ことがうまくいかなかった場合の逃げ道を
たえず自分でつくっておく必要があったから。
Q27「狷介」かつ「自ら恃むところすこぶる大きい」李徴なのに、なぜ「自嘲」する必要があったのか。60字以内で説明せよ。
A27 物事がうまくいかない時に、他人からの批判を受け自尊心が傷つけられることのないように、
予防線をはっておくため。
自尊心が傷つけられることを極力排除したい → 自嘲する
∥
「プライドが高い」ゆえに「自嘲する」 … アンビバレントな状態
人間の心情 … 基本的にアンビバレントなもの
☆ アンビバレント … 相反する感情が同時に存在するさま。「―な感情を抱く」。両義的・両価的。
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