富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西および南北に断面図を作ってみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、〈 aたいていの絵の富士 〉は、鋭角である。頂が、細く、高く、〈 ①華奢 〉である。北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔のような富士をさえ描いている。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと広がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとえば私が、インドかどこかの国から、突然、鷲にさらわれ、すとんと日本の沼津辺りの海岸に落とされて、ふと、この山を見つけても、そんなにキョウ〈 ②タン 〉しないだろう。ニッポンのフジヤマを、あらかじめ憧れているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、そのような俗な宣伝を、いっさい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、はたして、どれだけ訴え得るか、〈 bそのこと 〉になると、多少、心細い山である。低い。裾の広がっているわりに、低い。あれくらいの裾を持っている山ならば、少なくとも、もう一・五倍、高くなければいけない。
昭和十三年の初秋、思いを新たにする覚悟で、私は、かばん一つさげて旅に出た。
甲州。ここの山々の特徴は、山々の〈 ③起伏 〉の線の、変にむなしい、なだらかさにある。小島烏水という人の『日本山水論』にも、「山の拗ね者は多く、この土に〈 c仙遊 〉するがごとし。」とあった。甲州の山々は、あるいは山の、げてものなのかもしれない。私は、甲府市からバスに揺られて一時間。御坂峠へたどり着く。
御坂峠、海抜千三百メートル。この峠の頂上に、天下茶屋という、小さい茶店があって、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、籠もって仕事をしておられる。私は、それを知ってここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないようなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思っていた。
井伏氏は、仕事をしておられた。私は、井伏氏の許しを得て、当分その茶屋に落ち着くことになって、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合っていなければならなくなった。この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉〈 ④オウ 〉カンの衝に当たっていて、北面富士の代表観望台であると言われ、ここから見た富士は、昔から富士三景の一つに数えられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽蔑さえした。あまりに、おあつらい向きの富士である。真ん中に富士があって、その下に河口湖が白く寒々と広がり、近景の山々がその両袖にひっそりうずくまって湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひと目見て、〈 〉d狼狽 〉し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書き割りだ。どうにも注文どおりの景色で、〈 e私は、恥ずかしくてならなかった。 〉
問一 波線部①「華奢」・③「起伏」の読み方を記し、②「タン」・④「オウ」を漢字に直せ。
問二 傍線部aとあるが、「絵の富士」は、富士をどのような山として描いているのか、十字で抜き出して答えよ。
問三 傍線部b「そのこと」の指示内容として最も適当なものを選べ。
ア 日本を訪れた外国人の心に、どれだけ訴えかけるかどうかということ。
イ 富士に対する世間の評価を、自分達が納得できるかどうかということ。
ウ 富士の実際の姿を見た人が、本心から感動するかどうかということ。
エ 何の先入観もなく富士を見た人が、感動する山かどうかということ。
問四 傍線部c「仙遊」の「仙」と反対の意味をもつ漢字を、第一段落から一字で抜き出せ。
問五 傍線部d「狼狽」の意味として最も適当なものを選べ。
ア うろたえる イ ためらう ウ ほくそえむ エ はじらう
問六 傍線部e「私は、恥ずかしくてならなかった」のは、「私」が富士をどのようなものと捉えているからか。十五字で抜き出して答えよ。
〈こたえ〉
問一 ①きゃしゃ ③きふく ②嘆 ④往
問二 秀抜の、すらと高い山
問三 エ
問四 俗
問五 ア
問六 あまりに、おあつらい向きの富士
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