福島県の南相馬市に「朝日座」という映画館がある。
昔ながらの映画館だ。このへんでいうと川越スカラ座のような。
あとは……、吉祥寺プラザぐらいかな。
もう、こういうタイプの映画館は、廃業するか、別の資本が入って大改装するかみたいになっている。
当然、福島県で営業し続けるのは難しい。
実際に何年か前に閉館し、いまも建物が残るという「朝日座」を、そのまま舞台にした作品だ。
映画館の館長? 館主? は、柳家喬太郎師匠が演じる。
スーパー銭湯に身売りして小屋をたたむことになった館主が、映画のフィルムを燃やしているとこに、東京から若い女が現れる。
「フィルム燃やしてんじゃねぇよ、じじぃ!」
「廃館なんかさせない、私が立て直しに来た」と、高畑充希ちゃんは言う。
喬太郎師匠はおれより二つか三つ年下なのに、すっごい「じじぃ、じじぃ」言われてた。
そっか、そういう扱いか……としみじみしながら、充希ちゃんになら「じじぃ!」って強くののしってもらいたい気持ちも生まれていた。
「だいたい、おまえは誰だ、名を名乗れ」と言われた充希ちゃんは、とっさに「ええと、もぎりこ……茂木莉子」とうそをつく。
浜野あさひが本名で、この名前が彼女の「不幸な」歴史のもとにもなっているのだが。
あさひが尋ねてきたのは、高校時代の恩師である大久保先生との約束があったからだ。
大久保先生じゃないか。役名、なんだったっけ? いいかこれで。
大久保佳代子さんそのままのたたずまいで、本当にこんな高校の先生いそうな感じで演じていた。今年の助演女優賞候補にぜひともあがってほしい。高畑充希ちゃんはあまりに上手すぎて気持ち悪いくらい(いい意味で)。
あさひは、高校時代に大震災を経験する。そのあとのいろいろで、家族の心も離れ、友達ともうまくいかなくなる。
ふらふらと屋上に歩いていくあさひを、大久保先生が見かけ、声をかける。
むりやり自宅につれて帰り、一緒に映画を観る。
「人間てみんな最後は死ぬんだよね、あわてることないよね」とつぶやく。
家の事情で東京に転居することになり、あさひは転校するのだが、新しい学校にもなじめずに退学してしまう。
家出してきたあさひを、大久保はかくまう。そして映画を観る。
「あたしさ、すぐ男の人を好きになって、つきあうんだけど、すぐふられてしまうのよ」
そのたび大久保は、映画を観て自分を慰めてきたという。
そんな先生の影響をうけ、後にあさひは映画の配給会社に勤めることとなった。
時は流れる。
「もともとやってけなかったんだけど、コロナにダメ押しされたんだよ」
大震災とコロナ禍という、人の力ではいかんともしがたい二つの大きな災厄を生きる福島の人々を描いた作品ともいえるだろう。
さらに、大久保先生は、病気というあらがえない運命をかかえることにもなった。
その知らせを受け、残された日々と少しでも一緒にいたいと、あさひは病室に足を運ぶ。
そして、大久保が足繁く通った朝日座をつぶさないでほしいという願いを聞く。
あさひは、映画に救われたというより、映画を愛する大久保先生に救われた。
だから彼女の愛する映画館を守りたいと思ったのであり、それが亡くなった大久保先生を救う行為なのだろう(まわりくどいか)。
「本当はなくたって生きていけるもんだけどね。」
大久保先生は言う。
たしかに、そのとおりだ。映画がなくても生命の維持はできる。
でもそれは人として生きていると言えるのか。
声高にそんな問いかけをする作品ではない。
何がムダかという問いかけをつきつめたら、生きることのほとんどはムダになってしまう。
それなら、できる範囲でいろいろあらがってみるのもいいんじゃない? と背中を押してくれてるようだ。
映画にかぎらない。
音楽でも文学でもスポーツでもアイドルでも、人はいろんなムダなものに救われながら生きている。
タナダユキ監督にはずれなしの原則は揺るぎない。
昔ながらの映画館だ。このへんでいうと川越スカラ座のような。
あとは……、吉祥寺プラザぐらいかな。
もう、こういうタイプの映画館は、廃業するか、別の資本が入って大改装するかみたいになっている。
当然、福島県で営業し続けるのは難しい。
実際に何年か前に閉館し、いまも建物が残るという「朝日座」を、そのまま舞台にした作品だ。
映画館の館長? 館主? は、柳家喬太郎師匠が演じる。
スーパー銭湯に身売りして小屋をたたむことになった館主が、映画のフィルムを燃やしているとこに、東京から若い女が現れる。
「フィルム燃やしてんじゃねぇよ、じじぃ!」
「廃館なんかさせない、私が立て直しに来た」と、高畑充希ちゃんは言う。
喬太郎師匠はおれより二つか三つ年下なのに、すっごい「じじぃ、じじぃ」言われてた。
そっか、そういう扱いか……としみじみしながら、充希ちゃんになら「じじぃ!」って強くののしってもらいたい気持ちも生まれていた。
「だいたい、おまえは誰だ、名を名乗れ」と言われた充希ちゃんは、とっさに「ええと、もぎりこ……茂木莉子」とうそをつく。
浜野あさひが本名で、この名前が彼女の「不幸な」歴史のもとにもなっているのだが。
あさひが尋ねてきたのは、高校時代の恩師である大久保先生との約束があったからだ。
大久保先生じゃないか。役名、なんだったっけ? いいかこれで。
大久保佳代子さんそのままのたたずまいで、本当にこんな高校の先生いそうな感じで演じていた。今年の助演女優賞候補にぜひともあがってほしい。高畑充希ちゃんはあまりに上手すぎて気持ち悪いくらい(いい意味で)。
あさひは、高校時代に大震災を経験する。そのあとのいろいろで、家族の心も離れ、友達ともうまくいかなくなる。
ふらふらと屋上に歩いていくあさひを、大久保先生が見かけ、声をかける。
むりやり自宅につれて帰り、一緒に映画を観る。
「人間てみんな最後は死ぬんだよね、あわてることないよね」とつぶやく。
家の事情で東京に転居することになり、あさひは転校するのだが、新しい学校にもなじめずに退学してしまう。
家出してきたあさひを、大久保はかくまう。そして映画を観る。
「あたしさ、すぐ男の人を好きになって、つきあうんだけど、すぐふられてしまうのよ」
そのたび大久保は、映画を観て自分を慰めてきたという。
そんな先生の影響をうけ、後にあさひは映画の配給会社に勤めることとなった。
時は流れる。
「もともとやってけなかったんだけど、コロナにダメ押しされたんだよ」
大震災とコロナ禍という、人の力ではいかんともしがたい二つの大きな災厄を生きる福島の人々を描いた作品ともいえるだろう。
さらに、大久保先生は、病気というあらがえない運命をかかえることにもなった。
その知らせを受け、残された日々と少しでも一緒にいたいと、あさひは病室に足を運ぶ。
そして、大久保が足繁く通った朝日座をつぶさないでほしいという願いを聞く。
あさひは、映画に救われたというより、映画を愛する大久保先生に救われた。
だから彼女の愛する映画館を守りたいと思ったのであり、それが亡くなった大久保先生を救う行為なのだろう(まわりくどいか)。
「本当はなくたって生きていけるもんだけどね。」
大久保先生は言う。
たしかに、そのとおりだ。映画がなくても生命の維持はできる。
でもそれは人として生きていると言えるのか。
声高にそんな問いかけをする作品ではない。
何がムダかという問いかけをつきつめたら、生きることのほとんどはムダになってしまう。
それなら、できる範囲でいろいろあらがってみるのもいいんじゃない? と背中を押してくれてるようだ。
映画にかぎらない。
音楽でも文学でもスポーツでもアイドルでも、人はいろんなムダなものに救われながら生きている。
タナダユキ監督にはずれなしの原則は揺るぎない。
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