水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

「こころ」の授業(3)

2019年10月08日 | 国語のお勉強(小説)
三段落

 二人はめいめいの部屋に引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かなことは朝と同じでした。私もじっと考え込んでいました。
 私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が遅れてしまったという気も起こりました。なぜさっきKの言葉を遮って、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な手ぬかりのように見えてきました。せめてKのあとに続いて、自分は自分の思うとおりをその場で話してしまったら、まだよかったろうにとも考えました。Kの自白に一段落がついた今となって、こっちからまた同じことを切り出すのは、どう思案しても変でした。私は〈 この不自然 〉に打ち勝つ方法を知らなかったのです。私の頭は悔恨に揺られてぐらぐらしました。
 私はKが再び〈 仕切りの襖 〉を開けて向こうから突進して来てくれればいいと思いました。私に言わせれば、さっきはまるで不意打ちにあったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。〈 私は午前に失ったもの 〉を、今度は取り戻そうという下心を持っていました。それで時々目を上げて、襖を眺めました。しかしその襖はいつまでたっても開きません。そうしてKは永久に静かなのです。
 そのうち私の頭はだんだんこの静かさにかき乱されるようになってきました。Kは今襖の向こうで何を考えているだろうと思うと、それが気になってたまらないのです。不断もこんなふうにお互いが仕切り一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、そのときの私はよほど調子が狂っていたものとみなければなりません。それでいて私は〈 こっちから進んで襖を開けることができなかったのです 〉。いったん言いそびれた私は、また向こうからはたらきかけられる時機を待つよりほかに〈 しかたがなかったのです 〉。  
 しまいに私はじっとしておられなくなりました。無理にじっとしていれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。私はしかたなしに立って縁側へ出ました。そこから茶の間へ来て、なんという目的もなく、鉄瓶の湯を湯のみについで一杯飲みました。それから玄関へ出ました。私はわざとKの部屋を回避するようにして、こんなふうに自分を往来の真ん中に見いだしたのです。私にはむろんどこへ行くというあてもありません。ただじっとしていられないだけでした。それで方角も何もかまわずに、正月の町を、むやみに歩き回ったのです。私の頭はいくら歩いてもKのことでいっぱいになっていました。私もKを振るい落とす気で歩き回るわけではなかったのです。むしろ自分から進んで〈 彼の姿を咀嚼しながらうろついていた 〉のです。
 私には第一に彼が解しがたい男のように見えました。どうしてあんなことを突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋がつのってきたのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。私は彼の強いことを知っていました。また彼のまじめなことを知っていました。私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼についてきかなければならない多くを持っていると信じました。同時にこれから先彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の部屋にじっと座っている彼の容貌を始終目の前に描き出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かすことはとうていできないのだという声がどこかで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました。
 私が疲れてうちへ帰ったとき、彼の部屋は依然として人気のないように静かでした。

時機……タイミング
往来(おうらい)……道
咀嚼(そしゃく)……かみくだく

Q9「この不自然」とは何のことをこう言っているのか。(50字以内)
A9 お嬢さんへの恋心を打ち明けるKの話が一段落した後で、自分が同じ内容の話をKに切り出すこと。

Q10「仕切りの襖」には表現効果を説明せよ。
A10 私とKの心の隔たりを象徴的に表す。

Q11「午前に失ったもの」とは何か。20字以内で述べよ。
A11 自分とお嬢さんとの結婚話をすすめる契機。

Q12「自分から進んで彼の姿を咀嚼しながらうろついていた」とあるが、それはなぜか。40字以内で説明せよ。
A12 Kの人間性をよく見極めながら、今後自分のとるべき態度を決めていこうと考えたから。

Q13 Kの存在が「私」にとって不都合なものになったことを予感させる表現を、三つ抜き出せ。
A13 相手にするのが変に気味が悪かった
   彼が一種の魔物のように思えた
   私は永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました


事 襖を隔ててKと対峙する

心 落ち着かない
  静かなKが気になる
  一方的な敵対心を抱く
   逆襲 手抜かり 突進 不意打ち

行 正月の町を歩き回る

心 私 →咀嚼→ K
   平生と異なっている 不可解
   気味が悪い 一種の魔物 祟られた

   読者=私(青年)への印象操作


Q14 「私(=先生)」が、Kへの恐怖心や不可解さを強調するのには、どのような心理が働いていると考えられるか。
A14 その後Kを出し抜いてお嬢さんとの結婚話を進めるという行動を自分がとったことを
   少しでも正当化したいという自己弁護の心理。

Q15 なぜ「しかたなかった」のか。「私」の行動をおさえているものは何か。
A15 プライド 見栄 世間の目 Kに対する劣等感

Q16 「こちらから進んで襖を開けることができなかった」のは、なぜか。
A16 不自然さをおして、自分の気持ちをKに説明することは、
   学問的劣等感を抱いているKに対し、
   世俗のことでまで後れをとるようで自尊心が傷つけられるから。

Q17 二段落の「口をもぐもぐさせるはたらきさえ、私にはなくなってしまったのです」に見られる、
   Kに対する私の意識を説明せよ。
A17 Kの死後何年も経った後でさえ、Kを揶揄する表現を半ば無意識に用いていると考えられ、
   Kに対する劣等感とその裏返しの自尊心の存在は変わっていないことを読み取ることができる。

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