□ 幽玄の世界を庭の花にたとえたら、
たとえばこの桔梗咲き朝顔…。
◇ 今宵は新古今和歌集(New Collection of Ancient and Modern Time:1205)に
まつわるお話を中心に…夜も更けてまいりました。
□ ヘブンリー・ブルー
◇ もう一つ、大人になってから、高校生の頃のいやいや暗記勉強が、
あとあと、何かしら糧になっていくんだなあと思えることがあります。
大したことじゃないのですが、知らず知らずのうちに、
古典文法が体に染み込んで、古典の素養とまではいかなくても、
「そよ」くらいは身に付いているんです。
□ これは、ゼフィランサスの花でしょうか?葉っぱは別の植物です。
◇ つまり、三つ子の魂百までも "The child is the father of the man."
訳がわからなくとも、呪文のように唱え続けたもの。
テストのためには、教科書丸暗記しか手立てがなかったもの。
それがいつの間にか、私を古典の世界にまで呼び込んでいました。
□ ギャラリーダリア
◇ 唱歌とか学校行事に必ず歌った、文語調の歌詞。
卒業式でもうあまり歌われなくなった、「いまこそ わかれめ いざさらば♪」
「わかれめ」は「分かれ目」だと、つまり学友達それぞれの分岐点だと…。
少なくとも中学生までは、ぼんやりとそう思ってました。
ホンマは「さあ今、お別れだ」くらいの意味なんですね。
□ 桔梗咲き朝顔
◇ 古文では、「こそ」で強調されたら、動詞は已然形に変化する。
決意の助動詞「む」が「め」と活用する、それは新鮮な驚きでした。
文語と口語の違い、ようこんなに書き言葉としゃべり言葉を
違えられるものかなあとか。
また、古語と現代語の違い、言葉や言い回しというのは、
時代とともに変わって行くものなんだとか…。
□ こんなに愛らしい、ちっちゃい「さやか」が咲きました☆
◇ 私は百人一首を始めとする和歌の世界、とりわけ新古今和歌集の幽玄の世界。
これには興味をそそられて、特に大学生の頃でしたか、
ずいぶん読みふけった覚えがあります。
本歌取りに体言止めに七五調…。
万葉集のあっけらかんと、あるいはズバッとしたストレートな素朴さと比べたら、
いかにも技巧に走り過ぎの感もあります。
でも私みたいな「第一印象派」「抒情余韻派」には、とても魅力的な歌集なのです。
□ サマー・ミント
み吉野の山の秋風さ夜ふけて 古里寒く衣打つなり 藤原雅経
吉野おろしの秋風が、身にしみるほど吹きわたっているうちに夜が更けて
この古い離宮の跡である吉野には、砧(きぬた)で布をうつ音も
寒々と聞こえてくることだ。
(本歌取り、小倉百人一首の一つ)
[本歌]
み吉野の山の白雪つもるらし 古里寒くなりまさるなり 坂上是則
(古今和歌集)
吉野の山に降る白雪はどんどん積もっているに違いない。
この奈良の古い都もだんだん寒さが加わってくることだ。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山 西行
こんなに年をとってから、またこの山を越えようとかつて思っただろうか、
いや思いもかけなかった。
思わぬ寿命であるなあ、また小夜の中山を越えようとは。
(体言止め)
[新古今和歌集でも大好きな和歌三首+α]
秋風にたなびく雲のたえまより もれいづる月の影のさやけさ 藤原顕輔
秋風に吹かれてたなびいている雲の切れ目から、もれて現れ出る月の光の
あざやかで明るいことよ。
※ 9月25日(火)は、中秋の名月ですね。
さびしさはその色としもなかりけり まき立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮
一様に常緑の槇だから、特にどの色のためにさびしいということもないが、
この山の秋の夕暮れの景色は、山全体がまことに何とも言いがたいほど
さびしいものである。
(三夕の和歌の一つ、以下あとの二つ)
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行
見わたせば花ももみじもなかりけり 浦のとま屋の秋の夕暮れ 藤原定家
※ これら三首は三夕(さんせき)の和歌と呼ばれています。
いずれも、三句切れ、体言止めで、幽玄の趣を詠んだものです。
春の夜の夢の浮き橋とだえして 嶺にわかるる横雲の空 藤原定家
短い春の夜のはかない、美しい夢がふととぎれて、さめやらぬ目をやると、
あけぼのの空に横にたなびいている雲が今しも東の山の峰を離れようと
している。
※ すべて、旺文社古語辞典より
□ 桔梗咲き朝顔
◇ また、徒然草、枕草子、土佐日記、更級日記、源氏物語、平家物語などは、
(教科書に出るくらいの有名な)名文に限られますが、
今でもそらんじて言える部分があります。
特に冒頭部分は、春の小川よりもさらさら流れます。
(もうあまり自信はないです)
だからといって、それが表向き何かの役に立っているというわけでは
ないのですが…。
ドラえもんとのび太くんじゃないですけど、「心の友」と言う言葉が
ぴったしです。
□ 毎朝開く朝顔の花。ときどき開く新古今集…。
◇ そしてこの年になって、やっとその意味するところが理解できつつある
(らしい)ことです。
文学に触れるということは、古典でも現代文学でもその世界に
自分を置いてみること。
そこで自分の生き様を比較し、率直に省みることにあると思います。
自分の心の中に、生活の中に、文学の世界もしくは、作者の魂を
受け入れることで、より多様性や奥行きや深みのある柔軟性に富んだ
人間になろうと励むことなんでしょう。
(To Be Continued)
たとえばこの桔梗咲き朝顔…。
◇ 今宵は新古今和歌集(New Collection of Ancient and Modern Time:1205)に
まつわるお話を中心に…夜も更けてまいりました。
□ ヘブンリー・ブルー
◇ もう一つ、大人になってから、高校生の頃のいやいや暗記勉強が、
あとあと、何かしら糧になっていくんだなあと思えることがあります。
大したことじゃないのですが、知らず知らずのうちに、
古典文法が体に染み込んで、古典の素養とまではいかなくても、
「そよ」くらいは身に付いているんです。
□ これは、ゼフィランサスの花でしょうか?葉っぱは別の植物です。
◇ つまり、三つ子の魂百までも "The child is the father of the man."
訳がわからなくとも、呪文のように唱え続けたもの。
テストのためには、教科書丸暗記しか手立てがなかったもの。
それがいつの間にか、私を古典の世界にまで呼び込んでいました。
□ ギャラリーダリア
◇ 唱歌とか学校行事に必ず歌った、文語調の歌詞。
卒業式でもうあまり歌われなくなった、「いまこそ わかれめ いざさらば♪」
「わかれめ」は「分かれ目」だと、つまり学友達それぞれの分岐点だと…。
少なくとも中学生までは、ぼんやりとそう思ってました。
ホンマは「さあ今、お別れだ」くらいの意味なんですね。
□ 桔梗咲き朝顔
◇ 古文では、「こそ」で強調されたら、動詞は已然形に変化する。
決意の助動詞「む」が「め」と活用する、それは新鮮な驚きでした。
文語と口語の違い、ようこんなに書き言葉としゃべり言葉を
違えられるものかなあとか。
また、古語と現代語の違い、言葉や言い回しというのは、
時代とともに変わって行くものなんだとか…。
□ こんなに愛らしい、ちっちゃい「さやか」が咲きました☆
◇ 私は百人一首を始めとする和歌の世界、とりわけ新古今和歌集の幽玄の世界。
これには興味をそそられて、特に大学生の頃でしたか、
ずいぶん読みふけった覚えがあります。
本歌取りに体言止めに七五調…。
万葉集のあっけらかんと、あるいはズバッとしたストレートな素朴さと比べたら、
いかにも技巧に走り過ぎの感もあります。
でも私みたいな「第一印象派」「抒情余韻派」には、とても魅力的な歌集なのです。
□ サマー・ミント
み吉野の山の秋風さ夜ふけて 古里寒く衣打つなり 藤原雅経
吉野おろしの秋風が、身にしみるほど吹きわたっているうちに夜が更けて
この古い離宮の跡である吉野には、砧(きぬた)で布をうつ音も
寒々と聞こえてくることだ。
(本歌取り、小倉百人一首の一つ)
[本歌]
み吉野の山の白雪つもるらし 古里寒くなりまさるなり 坂上是則
(古今和歌集)
吉野の山に降る白雪はどんどん積もっているに違いない。
この奈良の古い都もだんだん寒さが加わってくることだ。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山 西行
こんなに年をとってから、またこの山を越えようとかつて思っただろうか、
いや思いもかけなかった。
思わぬ寿命であるなあ、また小夜の中山を越えようとは。
(体言止め)
[新古今和歌集でも大好きな和歌三首+α]
秋風にたなびく雲のたえまより もれいづる月の影のさやけさ 藤原顕輔
秋風に吹かれてたなびいている雲の切れ目から、もれて現れ出る月の光の
あざやかで明るいことよ。
※ 9月25日(火)は、中秋の名月ですね。
さびしさはその色としもなかりけり まき立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮
一様に常緑の槇だから、特にどの色のためにさびしいということもないが、
この山の秋の夕暮れの景色は、山全体がまことに何とも言いがたいほど
さびしいものである。
(三夕の和歌の一つ、以下あとの二つ)
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行
見わたせば花ももみじもなかりけり 浦のとま屋の秋の夕暮れ 藤原定家
※ これら三首は三夕(さんせき)の和歌と呼ばれています。
いずれも、三句切れ、体言止めで、幽玄の趣を詠んだものです。
春の夜の夢の浮き橋とだえして 嶺にわかるる横雲の空 藤原定家
短い春の夜のはかない、美しい夢がふととぎれて、さめやらぬ目をやると、
あけぼのの空に横にたなびいている雲が今しも東の山の峰を離れようと
している。
※ すべて、旺文社古語辞典より
□ 桔梗咲き朝顔
◇ また、徒然草、枕草子、土佐日記、更級日記、源氏物語、平家物語などは、
(教科書に出るくらいの有名な)名文に限られますが、
今でもそらんじて言える部分があります。
特に冒頭部分は、春の小川よりもさらさら流れます。
(もうあまり自信はないです)
だからといって、それが表向き何かの役に立っているというわけでは
ないのですが…。
ドラえもんとのび太くんじゃないですけど、「心の友」と言う言葉が
ぴったしです。
□ 毎朝開く朝顔の花。ときどき開く新古今集…。
◇ そしてこの年になって、やっとその意味するところが理解できつつある
(らしい)ことです。
文学に触れるということは、古典でも現代文学でもその世界に
自分を置いてみること。
そこで自分の生き様を比較し、率直に省みることにあると思います。
自分の心の中に、生活の中に、文学の世界もしくは、作者の魂を
受け入れることで、より多様性や奥行きや深みのある柔軟性に富んだ
人間になろうと励むことなんでしょう。
(To Be Continued)