今や「餃子の街」と化した宇都宮だが、住んでいない者には、どこの店にいけばいいかわからない。
うれしいことに「来らっせ」の東武宇都宮店では、12の店の餃子を1つずつ味わえる(680円)。私は、餃子に飯も麺もいらない。
そういう食べ方ができるのもうれしい。
さて、12個の餃子を1個1個、ビールをちびちびやりながら、卓上にあった宇都宮中の餃子店の案内本を見ながら食べた(写真:前列左から、みんみん、味一番、玉ちゃん、飯城園、新三、ねぎにら餃子。後列左から、幸楽、餃子館、餃子会館、高橋餃子、悟空、雄都水産)。
ちなみに、タレも宇都宮餃子用のタレを使っている(ご覧の通りラー油が多め)。
正直、(微妙な差はあるが)大きな差はわからない。
いずれも普通の餃子の範囲内だった。
実際、「宇都宮餃子」に対する観光客あるいは土産をもらった反応はこのようなもの。
そもそも宇都宮に餃子の店が多いのは、市民が餃子好きであるためで、何も観光用の特化品として意図的に開発されたものではない。
だから、宇都宮餃子っていっても、それは特別なものではなく、日常生活で食べるただの餃子だ。
それで悪いか。
餃子は、餃子であるだけでおいしいのだ。
実際、変わり種餃子や、一口餃子、あるいはジャンボ餃子などあえて趣向を変えたものは、私の舌では、いずれも、バランスが悪く、ただの餃子に負けた。
すなわち餡の構成、皮の厚さと大きさ、皮と餡の関係、裏面の焼き具合と表面の蒸し具合、それらが完成の域に達したのが(ただの)餃子なのだ。
ただの餃子が最高の餃子なのだ。
実際、「浜松餃子」もただの餃子だ(餃子の他にもやしがついているだけ)。
かように私も餃子は大好きなのだが、なぜか日常的な食べ物に近づけていない。
餃子は特別に付ける一品という位置にあるためだ(餃子が”常に付ける一品”になれるのは「王将」においてだけ)。
店は地元の人たちで満席で、家族連れは餃子を大皿で注文し、取り分けている。
かような餃子パーティはわが家では手作りで年に一度程度。
私にとって、思い立ったらいつでも餃子を食べられる宇都宮市民は幸せ者だ(有名店でも5個250円程度)。
どこでも「あんかけスパ」が食べられる名古屋市民が幸せ者なように。