東京ではなく江戸の下町といえば、それはもう日本橋(にほんばし)界隈に限定される。
今でも中央区日本橋一帯は、「日本橋」の後に昔ながらの町名がついて、細かく区切られている。
その一画、日本橋人形町(にんぎょうちょう、以下「日本橋」を略)にある大観音寺は毎月17日が本尊大観音の開帳日。
地下鉄日比谷線の人形町駅から地上に出ると、昔を偲ばせる横丁の一画(写真:道の左側が寺の階下。
右側に芸者さんの置屋があったという)、ビルの片隅の階段の上に大観音寺がある。
寺の前では、地元のキャラ?のぬいぐるみたちが人形町のスタンプラリーを宣伝している。
まずは、腹ごしらえに立ち食い蕎麦の店を探す。
実は、出発前に評判の店を調べてきたのだが、ビジネス街と化しているため、
食べたかった店はいずれも日曜休業だった。
仕方なしに目の前にあったチェーン店の「富士そば」に入る(チェーンだが店ごとにオリジナルメニューがある)。
ただ、食べ終ってよく見たら、大観音寺の道路を挟んだ向い側に地元らしき蕎麦店を見つけたが後の祭り。
さて、大観音寺の小さな本堂では法要が終ったばかりで、出てくる人たちと入れ替わりに本堂に上って、
前立ちの観音立像とその背後の鉄製の大観音の頭部を拝観。
この大観音、もともと北条政子が鎌倉に建てた新清水寺の本尊だったが、
紆余曲折を経てこの寺に祀られるようになったという。
今日の開帳日を目指してなのか、着物姿のお姉さんたちが団体でお参りに来た(着物を着た外国の観光客ではない)。
おかげで境内が一挙に江戸下町にふさわしい雰囲気になる。
若い親子連れが参拝に来て、若いお父さんが、小さな子どもに神社式の参拝の仕方を教えている。
実に残念な光景だが、まぁキャップを被った若いお父さんにしては心懸けは殊勝なので、
誤りを正すおせっかいはしないでおいた。
さて、次は北に進んで、江戸時代の富くじの地であった富塚がある堀留町(ほりどめちょう)の椙森神社に立ち寄って、
広い交差点の小伝馬町(こでんまちょう)に達する。
「こでんまちょう」っていい響きだ。
イナセなお兄さんが、「てやんでぇ」とか言いながら肩で風切って歩いていそう。
ここには大安楽寺という、目の前の牢屋敷跡とセットの寺がある。
狭い境内では屋外の地蔵と、屋内に祀られた八臂の弁財天(写真)が拝めるものの、
それらに接近すると防犯ブザーが鳴るしくみになっているので(しばらくすると止む)、
ブザーをききながらの拝観を強いられる。
隣りには日蓮宗の身延別院があり、油かけ大黒などがある。
これらの寺の向い側が十思(じっし)公園となっていて、
そこは牢屋敷跡(八百屋お七や吉田松陰が入れられた)と時の鐘の跡地でもある。
ここから東に向きを変え、馬喰町(ばくろちょう)を抜けて、
薬研堀(やげんぼり)の不動院に行く。
この不動院もビルに囲まれた一画にあって、階段を上った2階に狭い本堂がある。
紀州の根来寺から来たという本尊の不動像は小さく、その廻りに弘法大師像などがある。
この寺、今では川崎大師の東京別院になっている。
本堂下の屋外には講談発祥の碑と順天堂発祥の碑がある。
かように日本橋界隈は江戸の歴史が詰っている。
以上の寺巡りの種本は、宮澤やすみ著『東京仏像さんぽ』(明治書院)。
さて、帰路につく。
薬研堀に一番近い駅は、都営地下鉄の「東日本橋」だが、
都営地下鉄は乗り継ぎが割高なので、北に向ってJRの浅草橋に向う。
途中渡る神田川にかかる橋が「浅草橋」だから、その近くにできた駅が「浅草橋」となった(浅草からは遠い)。
神田川は隅田川(大川)に合流する河口近くになっていて、
大川で遊ぶ屋形船がずらりと繋留されている。
これも江戸情緒といえる。
しかしなんで浅草から遠いこの橋が浅草橋なのか。
江戸下町にしてすべての道の起点である「日本橋」側から見ると、
この橋から蔵前を通って浅草へ向う道が始まるということか。
その浅草橋駅に着いたが、まだ歩き足りないので、ここからさらに北上して御徒町(おかちまち)まで歩いた。
江戸下町である日本橋や神田は「〜町(ちょう)」なのだが、
その外では「〜町(まち)」となる。
前者は都市部の一画を示し、後者は道沿いの密集地を差すのか
(もっと外側の荒川区に「町屋(まちや)」があり、その先から街道の「宿」が始まる)。
結局、人形町(ちょう)から御徒町(まち)まで歩き、いいウォーキングになった。