マリナーズのイチローがとうとう引退を表明した。
昨年から引退は秒読み段階に入っていたものの、日本での公式試合まで延期されていたようだ。
そしてこの最後の2試合、打球が内野を越せなくなった打者イチローをファンとしては観るのが辛かった。
ただ、試合の場で”限りを尽くした”のはアスリートとして立派な”最期”だ
(アスリートをサムライになぞえるなら、サムライは戦さで討死するのが理想だから)。
結果はともかく、打席の一球一球を固唾を呑んで観たのは、
イチローの打席だけだ(WBCの決勝戦を思い出す)。
昨晩は、試合後に会見があるというのに試合が延長で延びてしまい、
帰れない観客とテレビ局はたいへんだったろうが、幸い実家のBSで会見まで観れた。
記者会見での質問は相変わらず凡庸なものだったが、
それに対する答えがイチローならではの非凡(凡庸な質問者の想定外)なものだったので、
答える側が非凡であれば、質問は凡庸でもかまわないかと思った
(質問者が非凡を気取る必要はない)。
結局、イチローの引退を受けて、なるほど、やっぱり平成が終るんだと実感した。
平成3年にプロ入りしたイチローは、平成そのものを生きたスーパースターだった。
将来、”平成”を思い出すには、”現役時代のイチローの頃”を思い出せばいい。
われわれは彼の活躍をリアルタイムに経験できた。
自己に直接かかわらない無関係の他者の行ないを観るという経験も、
自分の人生を構成する要素となる。
他者(同種他個体)は、自己に外在しているだけの単なる物ではなく、
”他なる自己”すなわち自己の延長としての外在的自己(自己性と他性が混合している存在)だからだ。
逆に言えば、個我は、社会という大きな”自己”の一部といえる。
だから体験を共有できるのだ。