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山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

三州吉田:小笠原氏史跡旅15

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

小倉藩主弟の家系

忠知ー長頼ー長祐
2006年5月

秀政(19)三男忠知(忠真の弟)は、忠真(20)の小倉移封に連動して、
1632(寛永9)年豊後(大分県)杵築4万石の主となった(壹岐守)。
だがほどなくして1645(正保2)年、三州吉田藩(愛知県豊橋市)4万5千石に若干加増されて転封となった。

三河(愛知県)は北で信州と接しているので、小笠原氏の城主クラスの中ではこの忠知系が故郷信州に一番近づいた家系となる(旗本の伊豆木小笠原は別として)。
しかしこの地にあったのは半世紀ほどで、その後1697(元禄10)年武州(埼玉)岩槻、
さらに遠州(静岡)掛川、奥州(福島)棚倉へと転々とする(それで終りでない)
特に棚倉移封は左遷に近かったらしい。
幕末まで小倉一ヶ所に安住できた惣領家と違い、たいへんだったろう。


吉田城跡

山一つ向こうは遠州のここ吉田(豊橋)は、戦国時代のひのき舞台(東海地方)の一郭にあり、
今川と徳川、後には徳川と武田の争奪戦の場であった(豊橋の北の新城市に長篠古戦場がある)
この地に城は戦国末期に建てられた。

吉田の現在名豊橋は愛知第2の都市ながら、城付近は豊橋公園の中で緑が多く、
市内の小さな朝倉川が大きな豊川に合流する所にあって、河辺の風景がのんびりしている(豊川の風情がいい)。

今残っているのは石垣と堀だが、立派な鉄櫓が再建されている。
河辺から見上げると櫓といえども天守の風格をみせる(写真)。
緑豊かな公園の中に豊橋市美術博物館もある。


小笠原家と茶の湯

ここ吉田小笠原家では、山田宗遍(表千家流三世千宗旦の弟子)が茶頭となり、以来宗遍流が続く。

ちなみに小笠原惣領家では、侘茶の開祖村田珠光の一番弟子古市播磨澄胤の四代後の古市了和
豊前小倉の小笠原忠真公に仕え、以来「小笠原古流」と称して現在に至っている。
つまり小笠原流茶道は千家を経由しない珠光直系。

室町時代のほぼ同時期にしかも互いに影響しあって成立した武家礼法と茶の湯を両方やると、
茶の点前の所作の意味がよく理解できる(例えば茶碗の持ち方の意味)。
また生活空間の和室ともてなし空間の茶室の所作の使い分けも理解できる
(お茶しかやっていない人は茶室の作法=和室の作法と思い込んでいる)。

私は勤務先の大学の授業で小笠原流礼法を教えているが、その中の希望者だけ、
自主講座として小笠原流の茶の湯を教えている(教室が茶室の造りになっている)。
茶の心は、礼の心とは異なった独自に洗練された意識・所作があり、
礼法だけでなく茶の湯を嗜むことは礼法を深める意味でも価値がある。


萬年山臨済寺

忠知が父秀政(19)の菩提を弔うために豊前杵築に建てていたものを、ここ吉田に移築した寺。
以後吉田小笠原家の菩提寺となり、忠知・長頼・長祐の3代の墓がある。
その意味でここは、豊橋に残る小笠原氏の数少ない史跡。

場所は城跡から東方の豊橋市東田町の住宅地にあり、幼稚園が併設されている。
付近の道は狭いので、やや北に離れた東田神明宮付近の方が車を止めやすい。
境内の墓地にはひと目でわかる三階菱の廟がある。廟内に入ってお参りしよう。

ここには宗遍流の祖山田宗遍の墓もあったが浅草願龍寺に移設されたという。

臨済寺正面
小笠原家廟所

ちなみに、忠知は残念ながら糾法的伝を受けていない。
そのためこの家系には礼法は伝わらなかった。
豊橋の歴史の旅はこの程度で終わるので、豊川稲荷(豊川閣妙厳寺の軒下を借りた神社)まで足を伸ばすといいかも。

忠知系の小笠原氏はやがて棚倉から肥前唐津に移封されて、幕末を迎える。
そこの小笠原家に登場したのは…

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