今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

麻原彰晃に惹かれた人たち

2018年07月06日 | 時事

麻原彰晃が率いたオウム真理教は、合法的な選挙による日本支配の構想が潰えた後、
無差別テロによって、日本に内戦をもたらそうとした。
実施に成功したのはサリン散布だけだが、
その他に生物兵器そしてロシアから核兵器の入手も画策していた(過去のNHKの放送による)。

日本史上、最も危険な人物だったのだ。

麻原一人の意思で、本来は善良な市民だった信者らが、
いやそれどころか一流の頭脳を持った科学者・医者・弁護士らの信者らがコマのように動かされた。
この恐ろしい現象は、ミルグラムの「服従の心理」の実験で、すでに心理学界では知られていた。
それが現代日本で大々的に再現されてしまったことに驚いた。 

かように、私がゾッとするのは、麻原個人の無差別殺人志向ではなく(それだけだったら他にもいる)、彼を教祖と仰いで、その殺人命令を実行した信者たちの姿。
誰がそうなってもおかしくない現象だから。 
宗教教団という強固に統制された社会集団が内包する恐ろしさだ。 

事実、オウム真理教の前には、連合赤軍がいて(共産主義も宗教と同じ)、
その後にはイスラム原理主義者たちが続いている。

事件を起こす前の麻原は、実は、新興宗教の教祖たちの中ではレベルが高いと、
当時の宗教学者らの間で評価が高かった。
宗教に対して免疫がある人たちまでもが、麻原の虚像を見抜けなかったということは、
それなりの引き付ける力をもっていたのだろう。 

私自身、この恐ろしい吸引力を探ろうと、教団発行の書籍(麻原の著作)などを集めたものの、一向に読む気になれないままでいる。

教祖麻原がいなくても(名を変えた)教団として存続可能になっている事も、
教義が独り歩き可能になっていることを示しているようで、不気味だ。


西野ジャパン:悔しさを糧に

2018年07月03日 | 時事

別に素人の私がコメントする必要はないのだが、ポーランド戦の采配を記事にしたので、その後についても黙っているわけにはいくまい。

夜更かしができないタチなので、ベルギー戦は録画して、翌朝再生して観た。

録画時間から、延長戦に至らなかったことは分っていたが、最後の最後でああなるとは…
本田のコーナーキックで得点をねらうべきか、延長ねらいでボールをキープすべきだったかは議論の分れるところだが、
この場で試合を決めるチャンスだったので、前者を選択するのは仕方ない(コロンビア戦で成功したし)。

この試合だけの感想としては、格上相手によくやった(ボコボコにされなかった)といえるが、ここで「感動をありがとう!」と締めくくっては意味がない。
それって「認知的不協和の低減」(心理的自己欺瞞)だから。

ホンネは、”悔しい! ”に尽きるでしょ。

グループリーグ突破は最低目標であり、それゆえポーランド戦での采配も容認できた。
その次の段階に行くのが今回の目標だった。
そしてその可能性が目の前に拡がっていた。
それがかなわなかった”悔しさ”こそが 、今回のロシア土産だ。
可能性が見えるからこそ、悔しいのだ。 

防災は、災害のたびにどうすればよかったのか、反省材料を探す。
その”結果論”が次の防災に役立てられる。
大阪直下の震度6弱の地震で、死者が5名だったのはちっともラッキーではない。
その5名が死なずに済むにはどうすべきだったのかの検証・対策が必要なのだ。

サッカーもそれと同じ。
惜しくも負けた悔しさこそがチームを強くする。
手も足も出ない相手ではなかった。
ああすればよかった、こうすべきではなかったという反省が次のプレーに活かされる。

ポーランド戦の西野監督を私は武田信玄になぞらえたが、若い頃の信玄も苦杯をなめたし(砥石崩れ)、川中島では謙信に裏をかかれ,自身が危機を迎えた。
過ちから、生きた兵法を学ぶのが知将である。 

ヨーロッパや南米の並みいるサッカー強国には個々の力では劣るものの、技術や組織力で立ち向かう日本こそ、サッカーの、いや人間そのものの新たな可能性が託されている。

ベスト16に残ったのは、ヨーロッパと南米以外は日本だけだった。
だから、日本がベスト8以上に達することは、人類的意味があるのだ。 

ガンバレ 日本!


西野監督に”信玄”を見た

2018年07月01日 | 時事

日本対ポーランド戦のサッカーを観た感想として、私も「観ないで結果だけを知ればよかった」と思った。
といっても、戦いを放棄した日本(とポーランド)を観て、怒り等の負の感情には至らず、むしろ、これが最善の策ということは理解し、苦笑しながら、試合終了を待った。
ベスト16になるという本来の目的に達するための、リスクを最小にして、到達確率を最大化する行為こそ、ベストな戦略であることは否定できない。

国内でこれを批判する人たちの価値観は、まるで太平洋戦争中にバンザイ攻撃をして玉砕する日本軍を賞讃しているかのよう。 

そういう行為に美学を感じることは分らないでもなく、私自身、一番好きな戦国武将は猪突猛進型の上杉謙信だが、彼はめっぽう強かったからこそ、その猛進が爽快なのであって(佐野城での敵中横断!)、返り討ちにあって玉砕するような弱小レベルだったら、越後統一前に滅んでいたはず。

その猛将謙信を手玉に取ったのが、知将武田信玄である。
彼は、華々しい勝ち戦さを求めず、結果の利益を重視した。
信玄が旗印とした孫子の兵法にあるとおり、戦わずして勝つことをベストとした。
損失を最小にするためである。

もちろん、臨機応変の対応もすばやく、今の状況での最善の選択肢を追究する。
信玄の知略の前には、謙信もほぞを噛むしかなかった。 

戦国武将の人気では、信玄が謙信を上回っているということは、猛進よりも知略を好む人が多いはずなので、西野采配を見て、それもありかと苦笑する人の方がもっと多くてもいい。

その西野采配に対して「コロンビアが勝つという前提だが、もしセネガルが同点に追いついたらどうすんだ」という疑問をもつ人って、采配を硬直したものとみなしている。
「兵は拙速を尊ぶ」のだ。
あちらの試合をリアルタイムで把握しているのだから、すかさずこちらもリスク覚悟に同点を狙う戦法に切り替えるに決っている(ポーランドも戦意喪失していたから、急襲すれば同点も不可能ではない)。
実際には、セネガルが同点に追いつく勢いはないと判断したはず(セネガル戦の方が1分ほど終了が遅かったので、最後の1分は運を天にまかせたろう)。 

かように、私は西野監督に只ならぬ知将の影を見た。