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差別と日本人 野中広務/辛淑玉

かなり前に読んだ魚住昭著「野中広務」について毀誉褒貶があるのは知っていた。読んでいて、その内容があまりにリアルであることもあり、そこに書かれた内容についてもどこまでが客観的事実でどこからが「作者の想像」なのかという問題が頭から離れなかったし、場合によってはその真偽がとやかく言われていたという記憶もある。私にはそれを確認する手段がなく、気になったままになっていたのだが、本書はその答えのようなものが本人の口から聞けるのである。彼が、稀代のヒューマニスト・気骨の人なのか、それとも清濁併せ呑むという意味で普通の政治家なのか、そのあたりを見極めたいというのが興味の中心であった。
 彼が語る彼自身の行動は、到底真似のできそうにない、首尾一貫さと潔さに貫かれている。細かいことは抜きにしてとにかく信念と原則を貫く姿勢は、私もかくありたいと強く思わせるし、問題の対処の仕方の素晴らしいお手本を見せてもらっているような感銘を受ける。私の長らくの疑問の答えは月並みだが「稀代のリアリスト」ということだろうか。
 それにしても、アジアの政治家には、自分の現役時代のことを引退後に書物にするという習慣が欧米に比べて少ないという。歴史観の違いもあるだろうし、弁解のようなことはしたくないという美学の違いもあるだろう。また、アジアの政治家は晩年まで忙しすぎて、そうした過去を振り返る時間がないのかもしれない。さらに、引退後にも自分が現役時代に下した決定に責任を感じるという責任感の違いもあるだろう。こうしたいろいろな事情があるのだろうが、歴史を考える場合に「この件について、決定を下した政治家本人から話が聞けたら…」と残念に思うケースは確かに多い。日本経済新聞の「私の履歴書」が広く読まれるのは、そうしたものが少ないからだと思うし、また、私的なものだったはずの日記が後世、大切な歴史の資料になるのも同様の事情が関係しているだろう。「中国の毛沢東に自伝や日記があったら…」という話はよく聞く。そういう事情を考えると、本人自らが「しゃべりすぎたようだ」という本書の価値は想像以上に大きいし、これからの日本政治家がこれに倣って引退後にいろいろ語るということが今よりも多くなるきっかけになればと思う。(「差別と日本人」野中広務/辛淑玉、角川ONEテーマ21)
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