果たして、山崎の言う「詭弁」が社会で受け入れられる理由はこれでいいのだろうか。
まず、⑴メディアがトリック見抜けない。と筆者は言うが、それほどに記者は鈍感なのだろうか。
実際は政権側が何を言っても、記者クラブ内の大手メディアはそのとおりに発表する。筆者はその事に深くふれていない
この国には特有の記者クラブ制度があり、政権とメディア、またメディア相互間に黙契があるのではないのか。若しその黙契を破れば、記者クラブから追放の恐れがある。だから見抜けない振りをしているのかも。
黙契を守れば、菅首相から機密費でパンケーキをおごってもらえるのだ。
次に、⑵筆者は強く抗議する者がいない、というが、確かに一々目くじらを立てる者がいない。
余りにぬけぬけと子供騙しのような言い訳を公人が云うので、世間の識者はあきれ果てているとしかない、という感じもする。
一番困りものは小選挙区で辛くも選出された議員が与党の大きな派閥の領袖となれば、比較多数で党の総裁となり、国会の場では与党の多数投票で、国家の最高権力者に成ってしまうことだ。
果たして、そんな怪しい選出過程で、近来の厳しく難しい世界情勢にあって、武器も軍人も居ないこの小圀を上手く舵取りができるのだろうか。
早々と降参して大国アメリカにすがり付くなら、首長は能力不足でも勤まりそうだ。そうやって、安倍以降、三代にわたり、高い代価を払いながら米国屈従同盟にすがってきた。
世界で唯一原爆を落とされながら、「三度許すまじ」としか言えない、この圀の敗戦の事情。その中で長崎市はイスラエルを招待しなかったことは、中央政府よりも勇気があり評価したい。
この國は敗戦を終戦と言い換えて、歴史の見方を有耶無耶にする。これぞ歴史の修正ならぬ、「言い換え」という誤魔化しであろう。それが定着してしまったことが怖ろしい。
だが、今も「終戦」を「休戦」と言う人も居る、・・・。
近頃、テレビというモノをトンと観なくなった。何ら不都合がないから不思議だ。
今まで、新聞は、毎日、朝日、読売、日経と読んできた。定年前あたり日経に替えた頃から、新聞というモノに疑いを持った。
戦争責任を、天皇とか、軍人とか、政治家に押し付けるけど、新聞も共同正犯だろう。
しかし、何の責任もとらない。責任を取らないという点で官僚も似ている。
誰が首長や首相になっても官僚が支える。そしてマスコミが適当に誤魔化すのだろう。
昨日までは、御巣鷹山の日航機事故のことが新聞記事に載っているのが多かった。
ネット記事で「結局、日航はボーイング社を提訴することはなかった。アメリカとの外交上、日本が不利益にならないように中曽根政権から求められていたのかもしれない。」と木村良一氏が整備ミスによる重大事故と結論付けた。
此処には、青山透子、森永卓郎の言説は全く考慮されていない。しかし、1985年8月の日航機事故の後、同年9月の「プラザ合意」、翌1986年9月の「日米半導体協定」という、日本の米国への不可解な怯懦を全然説明できない。
この線を手繰ることは、この國では禁止されているようだ。長く生きた人間には、中曽根の葬儀は国葬儀よりも軍国的に荘重であったことに気が付いている。