敢えて、いまさら、この国は、アメリカの戦争に加担することはない。
押し付けられた九条を当面いじらないことは、広島と長崎に原爆を落としたアメリカ人の奢りと罪への無言の反発と抵抗になるのである。
今後、アメリカが世界中に撒いたグローバリズムによって、世界のどこでも、”国家”というものの意味が問い直される時期にきている。
そして、アメリカに依存する集団的自衛権はこれからの世界に本当に有効な自衛手段なのだろうか。それを考えずして、軽々に動くべきではない。
国連憲章(第51条)でも、芦田修正(自衛目的のための戦争と武力保持可能であるという解釈の余地を残した)でも、どちらでも良い。自らの国土を単純に守る個別的自衛権さえあれば、それ以上は当面いらないだろう。
瑞穂の圀
もし憲法九条を変えたら、敗戦国日本の反省を込めた憲法ではなくなる。単なる欧米を真似たありふれた近代的憲法でしかなくなるだろう。
日本は大東亜戦争によって、天皇の赤子と呼んだ臣民を310万人以上死亡させ、周辺諸国においては、約1900万人以上の命が亡くなった、と云われている。(吉田裕『アジア・太平洋戦争』岩波新書)その無言の謝罪の意味で、無理しても、この九条がある平和憲法を維持しなくてはならない。
もっとも、勝者アメリカは、敗者ニッポンに首輪を掛けるつもりで 九条を設けたのだろう。
屈辱的だから、どうしても憲法改正をしたいというのは、朴訥だが直球の反発でしかない。結果としてアメリカの術中に嵌まってしまうのだ。
今のアメリカは、日本に自分で掛けた首輪を外させ、自国の忠犬にして他国との紛争や戦闘に利用したいと思っている。それが、集団的自衛権という名のもとに行われる。
不思議なことに、アメリカの犬になるのを、憲法改正派は簡単に受け入れ反発をしないのが、全く理解できない。
稲穂の国
国家が民衆の為のものでなく、民衆を守るものでもない、そういうふうに考えると、あの戦争がなぜ起こり、原爆が落とされたにも拘らず、戦争の終結を逡巡し、国体護持に見苦しくこだわったこの國のあさましい過去が理解できる。その反省のない、戦後日本は、また同じような道を辿るような気がしている。
安倍政権のやり口を見ると、イスラム国人質事件の対応あたりから、一貫して、国民を馬鹿にしている姿勢が見て取れる。首相在任期間がもうすぐ史上三位になるとか、おめでたい事だ。しかし、気が付いたことがあった。
一位の桂太郎、二位佐藤栄作、三位伊藤博文。彼らは皆長州人である。むろん、安倍さんも。これじゃ、明治維新は革命ではなく、徳川家から長州藩へのクーデターだった、という歴史家が出てもおかしくない。
国連特別報告者デビット・ケイ氏の提言がマスコミ紙上から消えた。6月5日の官房長官記者会見では筋書通りに、最後の2問を、東京新聞の望月記者が必ず菅氏が嫌がる質問をすることになっている。
日本では「メディアの独立性に疑問が残る」というデビット・ケイ氏の提言を国連に報告するそうだが、政府の受け止めを質問した。菅氏は「政府は丁寧に説明したのに、政府の立場を十分に反映していないから、遺憾である」と答えている。
「丁寧」であれば、相手は納得するのか?記者の質問も漠としているし、答えも馬鹿馬鹿しい。
今日6日、メディアはほとんどこの事には触れていない。何故なら、D・ケイ氏の指摘は「記者クラブ制度の廃止」にも言及していた。大新聞は自らの膿は無視する。地方新聞も同様に無視した。
まさに、官房長官記者会見こそが記者クラブの温床ではないのか。事前に記者からの質問を記者クラブがまとめ、官邸がそれに、木で鼻を括る菅節の回答を造る。形だけの“政権の公開性”を示す茶番劇が無意味に毎日行われている。
一見厳しい質問も実は茶番劇を構成する一つの香辛料として官邸はおり込み済なのである。むろん望月記者もそれを納得している。それが証拠に、望月記者は「記者クラブの廃止の件」に一言も触れなかった。
日本のメディアは警察や官庁にある記者クラブで日常的にニュース記事を貰っている。ひどい場合はクラブの部屋の光熱水費も払っていないとか。おんぶにだっこである。そんなメディアに政治の、行政の、監視ができるのだろうか。
官邸とメディアは完全に連携している。昨日の官房長官記者会見でよく見えた。これが、この国のマスコミの程度であり、また、これは国とメディアの茶番劇をボケーと見てるわれわれ国民の程度でもある。