玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

役者

2013-04-28 10:49:00 | 映画

少し前だが、三國連太郎が死んだ。その一・二週間、テレビではその話題ばかりだった。確かに存在感のある役者であった。どこの局だか忘れたが、小倉智昭のワイドショーを見たとき、三國連太郎の作品が話題に上った。アシスタントの菊川怜が「釣りバカ日誌」とか言ったら、小倉がもの凄い剣幕で、なんだ、お前はその程度の作品しか知らないのか、彼にはもっと素晴らしい作品があるんだ、という意味のことをまくし立てた。善意もウィットもない、悪意だけの罵りであった。よくやるなあ、いい年をして、と思った。職場の好色な上司が若い娘をほんの少しの知識のなさを鬼の首でも取ったように責めたてる。一種のパワハラ、いや、セクハラかもしれないが。かわいそうに、見る間に菊川怜は黒く細く縮んでいった。その不快なテレビを見ながら、『飢餓海峡』という映画を思い出した。

何故かしら、あの頃、伴淳三郎の横顔の『飢餓海峡』の赤っぽい宣伝ポスターが気になっていたんだ。アジャパーの喜劇役者がシリアスな刑事役を演じたことに興味があった。6、7年前に、横浜の若葉町かな、旧のジャック・アンド・ベティ(映画館)で、水上勉原作の映画が日替わりで上演されていた。『飢餓海峡』が見たくて毎日通ったけど、運が悪いというか、その日に限って残業となって『飢餓海峡』だけを見損なった。やむを得ず、オークションでDVDを買った。ずっと伴淳が気になっていたのだが、見てみると強盗殺人犯の三國の演技が圧巻であった。DVDなのに、彼の汗臭い体臭が伝わってくるようであった。三國に貰った金で救われた娼婦の左幸子が、三國の残した切爪を頬に当てて悶えるシーンに、なんか不思議な感じをもらった。その娼婦がお礼を言いたくて、三國を探してしまうだのけどね。銀幕で見れば、どれほど素晴らしかったかと、今でもほぞをかむ思いである。

ジャック・アンド・ベティでは、『飢餓海峡』は見れなかったが、『越前竹人形』が見れた。若尾文子は着物の裾の乱れと白い足だけで完璧な情愛シーンを演じた。白黒映画でも、若尾の白い肌が印象的だった。かつて映画は存在感のある役者によって支えられていた。

〇B級グルメシリーズ~昔ながらのラーメン

旭川ラーメン

 

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靖国参拝

2013-04-25 20:56:33 | 政治

超党派の議員たちが靖国神社春季例大祭に参拝に行ったとのニュースが流れるや、当然のように中国・韓国からの強い非難があった。だが、マスコミは若干慣れっこになっている。一般庶民が一人で行って、賽銭を投げて外からお参りしたのではなく、彼らは一斉に社殿のなかに入って集団で参拝をした。だから、ある意図を持って行動をした一つの政治的行為である。その事には深く言及していないようだが。

中国や韓国がいくら罵っても、最近の尖閣や竹島問題での反日行動を見ていると、彼らの言う真意には、他意もあるということが解った。その所為か、ちょっとやそっとでは驚かなくなっている。靖国参拝が外交上の駆け引きの道具となっているのだ。日本側の戦争に対する引け目の確認や一瞬のたじろぎを、冷戦時代と同じように両国は期待をしている。

靖国に行くのが、彼らの言う右傾化であり、軍国化とはあまりにも直線的な論理である。しかし、こういう時こそ、突如領海を犯して尖閣に上陸したりして、一触触発の事態になるかもしれない。そもそも反省をしろと言われても、安倍首相のお爺さんである岸信介に対しての要求なら解るが、現代の日本人は戦後教育しか受けていないので、戦争を起こしたのは、誰が悪いとか、戦争を共謀したのは誰だ、と問われても、実は返しようがない。基本的な事実を今の日本人のほとんどが知らないのである。

日本という国が戦前に行った約15年にわたる戦争について、国として何ら総括をせず、また子孫にもその戦争理由を語らず、今日までアメリカの防衛の傘の中で、ぬくぬくと経済一辺倒でやってきたのが狡いと批判されれば、確かにそんな気もする。特に、意図的に戦後教育から戦争問題を省いたと指摘されれば、一瞬返す言葉にも窮してしまう。

今年の靖国神社の桜

何故、春の例大祭なのか。日を決めて一斉に行く必要があったのか。168人とは聊か多過ぎないか。サメの捕食を免れるイワシの大群なのか、赤信号みんなで渡れば怖くない、の論理なのか、どうもやり方がぎごちないと言うほかはない。戦後、強腰になったことがない国なのだ。どこかに反省があるんだよね。どうもすっきりしないけど。

 近くのお稲荷さんにお参りしました。

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懲戒市長

2013-04-20 21:47:11 | 政治

少し前の話だが、懲戒処分の警告文を給与明細に載せたという西の都。一種の厳罰主義だね。何でも懲戒処分を減らそうという運動だというのだが、一種のノルマ主義だね。その明細書が給料日に大阪市の職員の手元に配られた時の職員の落胆ぶりは想像するに余りある。その時は自分たちの首長が唾棄される存在になる瞬間でもある。

今にして判ったことは、大阪府の場合には財政破綻の克服という大義があったが、大阪市の場合はこれと言って職員を攻撃する種がなかった。そこで内部規律の乱れに目を付けたのだろう。相手を凹ませられるものなら、何でも使うという情け容赦のない喧嘩殺法だ。それによって、さしあたり、彼は強者として君臨できるかもしれないが、決して職員から尊敬されない市長であろう。お膝元の1万5千人の職員すら信頼も尊敬もされない市長が、はたして260万の市民から愛され、信頼される人になれるのだろうか。

何のための懲戒処分減少運動なのか?ただ自分が市長になったからには、これだけよくなったというバロメターの一つに使うだけではないのか。彼は一体何を求めているのか?お笑い系弁護士が独裁政治家になろうとしているのか。この落差は滑稽でもある。この種の滑稽さは東の首長にもあった。滑稽な行動・言動は、現代の政治家がマスコミの存在感を高める常とう手段でもある。小泉純一郎にも似たものがあった。滑稽さで周囲の眼を眩ませて、内心ではベロを出して自己実現に向けてひた走る、そんな狡猾な人間性がテレビに映る彼の顔から垣間見える。

政治家に成りたがる者は、魂を売って成る者もいる。金を使って成る者もいる。差し詰め、彼はマスコミに顔を売って政治家に成るつもりだろう。しかし、それは単なる顔ではなく、実際の彼の生き方が嘘であろうと無かろうと、勝手にマスコミが作りあげた生き方を切り売りしていることに彼は気付いていない。しかも、そのマスコミの作った生き方から、彼は脱出することはできない。もっとも転落することはできそうだが。

西の都の意味のない恐怖政治を、マスコミが、関西人が、許容していることに、戦前以来の偏狭な国民性の残存を感じさせられるのは悲しいことである。彼は拳をあげて学校の体罰を否定しながら、自らの部下である役所の職員に心の体罰を与えているのだ。

 

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懲戒市長

2013-04-20 21:47:11 | 政治
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別れの朝

2013-04-13 21:00:11 | 雑感

夜、酒を飲みながら、you tubeを見ていたら、坂本冬美「津軽海峡冬景色」とあった。それを聞いたら、本家の石川さゆりを聞かなければ、おさまらない。結果は明らか、演歌には苦労が良く似合う。石川さゆりは若いころはドレスを着た演歌歌手だった。デビューのときはアイドル路線で、一時期は森晶子・桜田淳子・石川さゆりが三人娘と言われた。すぐに石川さゆりから山口百恵に代わって、人気アイドルの中三トリオになった。石川さゆりはアイドルにはなれなかったが、長く歌うことができる演歌歌手になった。

ここで思い出すのが、ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」である。この歌の高橋真梨子と前野曜子の関係がもっと明白だ。あれほど歌の上手い高橋真梨子が、この「別れの朝」だけは前野曜子にかなわないような気がする。本人もその辺を解っているのか、バンドの代表曲なのにあまり歌わない。

当時、突然、ブラウン管から、前野曜子の姿が消えて、少したってボーカルが高橋真梨子に代わった。二代続いて、歌の上手いボーカルに当たるという幸運なバンドがあるんだと感心したものだ。しかし、今you tubeで見ても、前野曜子は普通の生活とは関わりそうもない飛んでる女だ。酒の飲みすぎてドタキャンが重なり、バンドから外れ、肝臓を病み、若くして死んだと、数年前にインターネットの情報で知った。

つまりは、こうだと思う。「別れの朝、冷めた紅茶を飲み干し、さよならの口づけを笑いながら交わした」というさっぱり訳の解らない女は、どうしても前野曜子である。高橋真梨子は、曲の終わりほうの、「ちぎれるほど手を振るあなたの眼を見ていた」という冷静で、最後まで諦めない、ちょっと恐いところのある女が似合うんだな。

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