1941年4月4日の永井荷風『断腸亭日乗』には、「新橋橋上にビラに『もう一押しだ我慢しろ南進だ』とあり」と記されている。
1941年3月26日の種村佐孝の『大本営機密日誌』には、「陸海軍は穏健論に落ち着く。最近南方施策が『バスに乗り遅れるな』の軽薄な考えはようやく一掃せられるに至った、かくして一部のものを除いて、…、」と書かれている。
種村の云う「一部のもの」が新橋でビラを巻いたのか。此処から、7月には「英米戦も辞せず」陸海軍の作戦は変わって、12月には真珠湾奇襲となる。
今やネット時代、ビラではなく、Dappiの類とか報道の端には「台湾有事」「敵」基地「攻撃」能力、等の『戦争の言葉』が鏤められている。この状況は、ウクライナ・ガザの例からも、世迷言ではない。