今年の桜は薄い色をしている。そう思う。靖国神社の桜は早く咲いたが、その後の満開がいつなのかがはっきりしない咲き方だった。こういうときは散るのも早い。
この神社は非常に数奇な立場にあると言えるのではないだろうか。歴代の首相の参拝が極東の外交に直接影響するというのも脅威であるが、それよりも、神社関係者にとっての最大の不幸は、天皇がお参りをしない神社であるということだろう。
そこで思い出すのは、2006年7月の日経新聞に載った元宮内庁長官富田朝彦氏の「富田メモ」である。昭和天皇は、「私は、或る時に、A 級(戦犯)が合祀され、その上、松岡、白鳥までもが。・・・だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」と述べたという。名指しされた二人は松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使である。
1975年11月以来、昭和天皇は死ぬまで靖国神社の参拝することはなかった。昭和天皇は、戦後一貫して平和と民主化のシンボルであり、「戦争に反対であった」とされている。ということは、「天皇の意を体した戦争」であったはずなのに、実は「天皇の意に反した戦争」であったということになる。そうだとすると、靖国神社遊就館の最後の部屋にある、壁いっぱいの無数の名刺大の若き兵士たちの遺影はいったい何なのだろう。
2006年の時には気が付かなかったが、天皇はA級戦犯という言葉を使ったが、実際に死刑となった軍人たちの名前は富田メモにはなかった。何故だろうという疑問が今沸いてきた。松岡も白鳥も日独伊三国同盟に深くかかわった外務官僚であるが、松岡は公判中に病死、白鳥は終身禁固刑で服役中に病気で死んだ。二人とも病死であり、絞首刑で死んだわけではない。ここに妙な同類性を見てしまう。
A級戦犯の合祀が不快だということは、自らの戦争責任に一線をひきたい、つまり、自分は東京裁判の被告ではない、戦争責任者ではないということを明確にしたいのだと考えられる。しかし、A級戦犯の具体名を挙げた時に、東條以下の軍人の名前を何故あげなかったのか。
その理由は、一つは、太平洋戦争は日独伊三国同盟が原因だと考えていたのか。二つは、軍人の名はあげたくなかったのか。三つはA級戦犯であっても、絞首刑にならなかった者を名指ししたのか。結果は軍人でない官僚で、収監中に病気で死んで行った二人の名前を出した。ここに昭和天皇の孤独で複雑な考慮を感じる。