玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

怪しい行政体

2020-01-28 14:38:43 | 政治

昨日(1月27日)の衆議院予算委員会をネットで見た。

この国の国会が正常な機能を失ったことが分かった。いまの政府・行政は、法の上において存在しているが、時には総理の、また時には自民党総裁の意に沿って、私的に、個人利益に、公然と権力を使う、怪しい行政体であるような気がした。

国会の従来からの<質問―答弁>の形式が全く成り立っていない。質問しても、答弁は、確かに外国語でなく日本語であるが、中身は全く質問の趣旨をわざと取り違えるか、個人情報とか捜査中とかの決まり文句で、その理由も根拠も示さず、大きな声で強く質問を拒絶、遮断しているだけ

ルール(常識)を守っていないのに、自分側のルール(非常識)を云う。公文書を一年で廃棄し、その廃棄した日を特定するログを、あたかも国家機密に関係するかのような屁理屈を恥ずかしくもなく言う長官もいる。

ここまで来ると、ネットを見ている時間が惜しくなった。

ただ言いたくないから、都合が悪いから、言えない、見せない、犯罪者の証拠提出拒否や隠滅を図る行為と何ら変わりがない。

この怪しい行政体は、国会という公の場で、官僚と結託しながら公然と嘘をついているだけである。この程度の国会なら、どこかの高級ホテルか田舎の公民館でやった方がよい。

昨日の野党の質問者は5名ほどたったが、森友・加計問題の時もそう思ったが、今井議員と大串議員の質問は野党内部の質問時間減らしとしか見えない。お二人はむしろ質問しない方が良いのではないか。虚しさが拡がるだけである

国会は大人の場所ではないようだ。

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昔見た政治劇

2020-01-23 10:13:27 | 時事

昔、同じような構図があった気がする。
巷では、安倍首相の後継を岸田政調会長と菅官房長官が争っているとか。
これって佐藤栄作の時の構図に似ている。当時は、たたき上げの田中角栄とエリート官僚の福田赳夫だった。結果は、金の力によって田中角栄が首相の座に就いた。
今回は、安倍政権が“死に体”になっていない。
そこで、公職選挙法違反容疑やIR誘致による汚職捜査で脅して、「もう野心は捨てなさいよ」と謎かけているのか。
「令和のおじさん」は「平成のおじさん」のように首相になれるというジンクスがあるのか?
となれば、その野心は「桜を見る会」の名簿を匕首として突き付けているとしたら?

どちらが本当の人事の力を持っているかで決まる。
この勝負どうでもいい、所詮は古い政党の権力闘争、お山の大将ごっこ。この構図が、此の國の政治の程度であることの方が寂しい。

みんな同じ。

 

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「君」という言葉

2020-01-20 19:52:02 | 言葉

寝る前に枕元に本を置いて、睡眠剤で何冊か目を通す。その一冊に『折々のうた』がある。

そこに、「羨(うらや)ましやわが心 夜昼君に離れぬ」とあった。

注釈に、出典は『閑吟集』とあった。室町時代中期の歌謡集だと云う。そんな昔から、この「君」という言葉があった、という事に驚いた。しかも、愛する者への呼称であろう、…。

近頃、韓国ドラマを見なくなった。大量生産・粗製乱造なのが分かったからだ。代わりに邦画を見るようになった。
『君の膵臓を食べたい』を見た。年甲斐もなく涙が出た。その最後の方の言葉に、「君としか呼んでくれなかった」という、ヒロインさくらのセリフがある。

作者はこの「君」という言葉を十分に知っていたのだろうか。あえて、現代のちょっと隙間のある関係に使う呼称の「君」を使ったのだろうか、どちらでもよいが、ふと小さな疑問として残った。

sakuraが待ち遠しい。

 

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二人の加瀬俊一

2020-01-13 22:52:36 | 近現代史

ポツダム共同宣言の受諾の時に、外務省で英語を翻訳しているのが加瀬俊一、最後に受諾を聯合国に電文を伝える先がスイスの加瀬俊一公使、いつも、不思議な思いで読んでいた。

あの当時でも、飛行機で2・3日で行けるのだろうとか。いや、単なるミス・プリンㇳだとか、適当に片づけていた。よくよく調べれば、簡単で、あの時の外務省には同姓同名の加瀬俊一が二人いたのである。

ただし、名前の読み方は違った。一人は5歳ほど年長の「しゅんいち」、もう一人は「としかず」と読むそうだ。

日本にいた、「としかず」が、バーンズ回答の「subject to」を「制限下にある」と日本語訳して、軍部の「従属する」と言う訳文を退けて、強引に受諾に持ち込んだという逸話を作った人物である。

戦後になって、加瀬俊一(としかず)は事も無げに、こう言う。「1946年2月13日、マッカーサーはアメリカの作った憲法を日本政府に突き付けた」と。

その理由は「極東委員会が機能する前に、いち早く平和憲法を作って、天皇は象徴天皇にしてしまう、それから武力を放棄する。その既成事実を作り、極東委員会からの干渉を排除しようとした」と。

だから、今の憲法は第一条に象徴天皇があって、第九条に戦力不保持まで明言されているのである。国民主権はそっちのけで、ただ前文にチョコッと記載されているだけなのである。

(参考文献)加瀬俊一「ミズリー号から占領へ」『語りつぐ昭和史5』昭和52年朝日新聞社

 

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法の上の自由人

2020-01-10 10:07:20 | 時事

ゴーンさんが逃げた。お金持ちで国籍がいくつもある人間は、邪悪な特捜の魔の手から逃亡できることが証明された。まさにゴーンさんは、法の外の自由人になった。

そういえば、日本国籍しかない人でも、例えば、A首相、A蔵相、S長官とか。彼らはまるで何とか三人組のように、赤信号でも怖くないと岩盤を打ち破り、堂々と自由に生きている。

彼らは官吏の人事権を握っている。つまり、法の番人や執行者を操縦しているから、結局、法に縛られないから、法の上の自由人である。

もっと凄いことに、彼らに追従しているだけで、公文書改竄しても罪にならない官吏や、逮捕状が出ているのに捕まらないジャーナリストとか。

これじゃ法治国家ではありません。滅茶苦茶、こんな自由人たちの手で憲法改正なんかしたら、どんなモノになるのやら。

結局のところ、一般国民は、法の下に形式的な平等と義務を伴う権利が与えられ、一定の範囲の中での自由が許されるが、それを支配する側の上級国民と明らかに平等ではなく、その自由にも大きな差があるのだ。

そのことを、ゴーンさんは我々に身を持って教えてくれた。まったく法治国家として、みっともない顛末でしたが、ひとつの得難い教訓でありました。

 

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