玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

黄色の國の生き方

2015-01-27 23:05:37 | 時事

知りたいことがメディアから報道されない、と思っていた。二人がイスラム国の人質になっていたことを、安倍首相の中東歴訪の前に政府は知っていたのだろうか、そのことだ。

ところが、今日の「報道ステーション」では、既に8月から政府が知っていたことが報道された。ということは、安倍首相は人質の二人に対する何の配慮もなく、また、イスラム国の逆襲のリスクの想定もなく、空爆に参加できない代わりに、2億ドルの援助をし、有志連合サイドの発言をしたことになる。そうした安倍政権の方向は、誰が決めたのか。安倍首相自身なのか、取り巻き達の総意なのか、それとも外務官僚たちの楽観論なのか。どちらにせよ、誰にせよ、それを明らかにすることによって、この政権の個人の人権に対しての温度感が明解になる。そして、誰がこの政権の真の決定者なのかが明らかになるだろう。この事件が終結したら、いかなる結果となっても、このことをメディアには追究してもらいたいものだ。

日本は欧米列国の真のメンバーに成れると思っているのだろうか。どうも、安倍政権は、かつての明治維新後の鹿鳴館のような背伸びをしてようだ。戦前の日本という國は、第一次世界大戦後には自ら大国と錯覚し、ロンドン軍縮条約で英米と軍艦数を競い合い、国内では膨大な戦時予算で軍備を膨張させ、それがのっぴきならなくなって、何の成算もなく太平洋戦争に飛び込んでいくことになる。そんな昔の話が、今また、通用するようになってきたんじゃないのか。今度は、軍備の膨張ではなくて、有志連合の一員になりたいという歪な大国意識からの中東支援が日本を戦争に巻き込んでいく。今日の安倍首相の国会答弁の開き直りから、そういうことが見えてきた。結局、夜郎自大の思い違いの尊攘志士の末裔が凝りもせず再び愚挙を繰り返そうとしている。日本人は黄色の肌のアジア人であり、白色の肌の欧米人にはなれない。

 タイで好きだった花

https://www.youtube.com/watch?v=CB4EgdpYlnk こういう時は、こういう歌が聞きたい。

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いろんな分岐点

2015-01-24 21:57:17 | 時事

昨晩のテレビの報道番組だが、イスラム国人質事件について、テレビ朝日の報道ステーションでは、「安倍首相は中東歴訪において、イスラム国の影響を受けているシリアやイラクなどの周辺国に2億ドルの人道支援をすると表明した。この拠出額がそのまま身代金にされた」という文脈の中で、古賀茂明は「安倍首相の行き過ぎた英米寄りの姿勢が日本の本来姿勢なのかをイスラム国に試された」という趣旨の発言をかなりの時間を割いて述べていた。横にいた古館キャスターは、取って付けたように、この種の事件に関してはいろんな考え方があると混ぜ返した。テレビ東京のワールドビジネスサテライトでは、ゲストの池上彰は「イスラム国のことを図解で徹底説明し、人質となった後藤さんが如何に信頼できるジャーナリストかを延々としゃべった。そして、イスラムへの理解者である後藤さんの解放をアラビヤ語で訴えた」何故この事件が起きたかという説明や推測は一切なかった。最近、朝日新聞への批判を果敢に挑んだジャーナリスト池上の言としては、些か拍子抜けの感があった。

安倍首相は帰国以来、人道支援と言い直してから、表立っての発言を控えているようだ。一国を代表する意見の重大さを改めて認識したのだろうか。今度のイスラム国の事件は、安倍首相が由緒ある生粋の政治家なのか、三代目政治屋なのかの分岐点になると思う。

かつて、言い過ぎたジャーナリストやコメンテーターはテレビ画面から姿を消してしまうらしい。森田実、江川紹子が記憶に新しい。古賀茂明もそうなる分岐点なのか。今回の事件で、池上彰は、ジャーナリストなのか、ジャーナリズム研究者なのかの分岐点になると思う。

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『情報化』・『高齢化』・『国際化』

2015-01-20 22:12:06 | 雑感

昔々のこと、多分70年代かな。日本の将来を規定する三つのキーワードがあった。それは、『情報化』・『高齢化』・『国際化』という言葉だった。これは就職試験の常識問題になったり、時代の世相を論ずる言葉として新聞紙上を賑わしたものだ。当時は情報化と云うと、007スパイのようなイメージがあったが、やがてパソコンが簡単に手に入るころから身近で日常的な言葉となった。高齢化は自らが高齢化することは当たり前のこととして、その根底には少子化が付随し、社会から総体的に若者が減るという事態は、簡単に言えば活気のない社会になることを予言していた。この言葉が個人を直撃したのは、自らの親の介護問題だった。介護に割かれる時間と労力によって、子供の人生は大きな影響を受け、深刻な問題として受け止められた。当時から、一番ボヤーとして掴みどころがなかったのが国際化という言葉だったと思う。それが、グローバリゼーションという言葉が流れてきて、リーマン・ショックあたりから、アメリカがクシャミをしたら日本が風邪を引く程度ではなく、世界のどこかで、何かが起こったら、光の速度でこの極東に偏在した日本にも関わりが出てくるということが解ってきた。

今回のイスラム国のこと、一昨年のアルジェリアの日揮人質事件も然り。戦後七〇年間、平和憲法のもとに、ただの一度も他国と戦争をしたことがない平和ボケ国家で、誰一人徴兵されることもない楽ちん国民である日本人が、そして、宗教とほとんど縁がなく、宗教と云えば、葬儀仏教程度の無宗教の国情で、この地球の自転する程度の僅か一瞬の時間性の中で、同時的に遥か西のイスラム教を信じる他者が勝手に引き起こした事件に当事者も、一国の首相も斯くも簡単に巻き込まれていく。これが70年代に最も希薄に見えた『国際化』という未来用語の行きつく先だった。あらためて受け止めざるを得ない、・・・。

   壁いろいろ(スコータイ遺跡、或る倉庫、盛岡城)

 

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自由と平等

2015-01-13 22:45:47 | 雑感

正月が過ぎ、もうすっかり街は平静にもどって、日のあたる歩道を、保育士に連れられた保育児の群がみんな同じ帽子をかぶって、或いは、年少さんたちは家畜のように箱車に乗せられて、公園の方に向かって手をつなぎならヨタヨタと歩いている。かつて、こうした光景は旧ソ連にあるような光景だと思っていた。旧ソ連では、男性と女性は同じ労働者であり、女性でも電車の運転手、バスの運転手をやると聞いた。そして子供は国家が育てる。そんな男女平等という実態を共産主義国家の特別な成果と捉えていた。しかも、資本主義国家の自由と相応するものとして捉えていた。今、この日本においては、女性たちはあたりまえにタクシー運転手になり、大工や左官や大型トラックの運転手というガテン系の職業にもドンドン進出している。21世紀の成熟した日本資本主義社会の中で、旧ソ連と同じ情景に出くわすとは、いったいどういうことなのだろうか。どうも自由と平等とは20世紀に考えられていた簡単に区分けできる概念ではなかったようだ。今の中国に、北朝鮮に、自由がないのは解っているが、果たして平等はあるのだろうか?とも考えてしまう。20世紀にあった社会主義国家というものは、ひょっとすると単なる統制管理国家でしかなかったような気になってきた。国家の中身としてのイデオロギーや政治観念が異なるとしても、外形上の国民の動きは戦前日本の総動員国家体制とどこが違っていたのだろうか。大して変わっていないんじゃないの、と思ってしまうのである。 

  点と線かな?

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正月風景

2015-01-06 13:36:32 | 雑感

正月は、勤め人が家に戻り、或いは、郷里に戻るから、街は静かになり、いつもと違った空気が流れる。だからか、何となく改まった気になるが、地方では急に人が増えて、それはそれで、いつもと違った風景となるのだろう。ともかく一つの節目という普通ではない空間と時間が生まれる。

私は確固とした年賀状不要論者ではないが、ただ面倒臭いというのが本音だ。だから、消極的で、おっつけ仕事で、何となく出している。心のどこかで、自然と減ることを祈っている。ところが、今年、本来なら去年来ると思っていた年賀状が一年遅れて送られてきた。「ああ、忘れてなかったんだ」「気にしていてくれたんだ」何となく暖かい気持ちになる。単純なものだ、もう口がだらしなくゆるんでいる。せっせと印刷して返事を出した。

 浅草  浅草寺境内

 うなぎ

 粟ぜんざい 

 

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