玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

GOODBAR

2016-03-30 23:36:28 | 映画

最近は地上波のテレビを敬遠している。もっぱらBSかケーブルを見ている。先日も『ミスター・グッドバーを探して』という映画を見た。何となく題名は知っていたが、当時は映画のチケットも高かったので、見る機会を逸していた。見ている途中で、これは典型的な70年代の映画であると思った。

終わり方は、妙に斜に構えた暗くて救いのない終幕であった。高学歴で品が良さそうだが、世の中の裏側も知っている自我の強い女性教師役を、人が良さそうで好感度の高い美人顔のダイアン・キートンが演じていた。だから、いつものとおりに終わりはハッピーエンドかと思ったが、豈に図らんや、当時フリーセックスが若者の先端の生き方というのを基調として、その時代の問題事象の解答を求めず、個人的な障害という枠で結末だけを投げつけ、バラバラにして落下させてしまった、と言う終わり方であった。

筋は簡単に言えば、聾唖学校の女教師が毎夜男を漁りにバー行き、ヤクにも手を染め、自らの持つ身体的な障害に捉われ、そこからの脱出ができず、最後はバーで拾ったゲイに殺されるという映画であった。ミスター・グッドバーを探して」 Looking for Mr. Goodbar(1977 ...ULKAN

見た後の不快感から、題名がどうも気にかかって調べてみると、  GOODBAR→とまり木、そして良い棒とのこと。ああ、失笑ものだ。一種の米国版の東電OL事件とも言えるだろうし、ベトナム戦争時代の若者の一つの転落行動パターンとも片付けられる。

感想はと言えば、若い頃に見逃した映画を見れたという小さな納得と、リチャード・ギアの駆け出し頃を見ることができたというぐらいか。「ミスターグッド...」の画像検索結果

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春の兆し

2016-03-22 14:10:51 | 雑感

靖国神社では桜が咲いたようだが、ここ湘南地方ではまだ開花していない。若い時はその時の気持ちや人生と重ね合わせて桜を見ていた。ただ嬉しくて楽しい時もあった。挫折や失敗をあざ笑っているような桜も何回も見た。今はただ、今年も桜を見れれば、また健康で生きられるという期待だけであるが、ただ開花が待ち遠しい。

(クリックすると見えます)

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高杉晋作のヤジ

2016-03-16 20:33:03 | 歴史

「ヨ!大統領」ではないが、幕末に、高杉晋作は徳川家茂の行列を見て「ヨ!征夷大将軍」と声を掛けたとか、掛けてなかったとか。仮に声を掛けたとして、そのことが、実は大変なことだと、自分が理解するのにかなりの時間を要した。我々が学校で習った歴史の用語というのは、当時全く普及していなかったのだ。誰も天下の将軍職が天皇から与えられた官職だと知ってはならない、言葉を発してはならない禁止用語だったはずである。それを、尊皇攘夷論者の高杉は言ったというのだ。それこそが徳川封建時代の終焉の兆であった。

この江戸時代を見る時に、将軍は朝廷の官職である征夷大将軍でしか過ぎないこと、そして、政治を委任された「幕府」の長であること、しかし、その当時に生きていたならば、たとえそれを知っていたとしても、何一つ口外できるような社会ではなかった、と言うことを、過去の歴史の中に見なければならない。誰も、表立って、「幕府」などとは言ってないのだ。「幕府」と云い始めたのは、幕末の尊王思想がある程度志士間に行きわたり、徳川幕府が朝廷・天皇の下部機関であることを示すことから、揶揄を含んでそれを云い始めたのである。その時、庶民はというと、「御公儀」とか、ただ「お上」、とか言っていたのだろう。徳川宗家が居並ぶ三百諸侯の中でとび抜けて肥大化した大名であること、決して権現様の生まれ変わりでなく単なる徳川宗家であること、それを広く世に知らしめる運動が尊王攘夷運動でもあった訳である。

我々は、歴史を通して過去を振り変える時、後の世に便宜上定義した言葉を安易に手掛かりとして、歴史の物事を覗いていないだろうか。ふと、この不確かな高杉のヤジに歴史の大きな意味があった、と考えたい。

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だから『卒業』か!

2016-03-07 13:29:44 | 映画

NHKBSプレミアムで『卒業』を見た。これまでに何度見たことだろうか、思い出せないぐらいだ。前半部分ではオヤッと思うシーンが多々あった。多分、これまで民放で何度も見て来たので、コマーシャルを入れるためにカットされていた部分なのだろう。

それに、ミセス・ロビンソンとのからみがやけに多いのに気がついた。熟女の手練手管で若者を誘惑し、簡単に籠絡させるシーンが映画の中心部分であって、随分と長かった。

美しき女たち男たち アン・バンクロフト 様 Anne Bancroft 

やがて、いつも見たとおり、赤い車でエレーヌを探して走るシーンで、懐かしいサイモン&ガーファンクルの曲が流れ、最後は教会から花嫁をかっぱらい、黄色いバスに乗り込み、最後尾の席に座る。二人は見詰め合う。ベンは何かを成し遂げた一人男の顔で進行方向をまっすぐに眺めている。これから新しい人生に向かっている大人の顔である。隣に座っているウェディングドレス姿のエレーヌは男の勢いに押されて夢中でついてきてしまったが、「果たしてこれでいいのかしら」ともう一回冷めた眼で、チラッと男の横顔を見る。男は女を見つめ返さず、なおも自分の英雄的な行為に酔ったかのように、前方を凝視している。

bus内側の Doubledecker バス

こんなシーンでした・・・

最後のキャスティングが流れると、一番上にミセス・ロビンソン役のアン・バンクロフトがあって、その下に、ダスティ・ホフマンがあった。三番目にキャサリン・ロスがあり、しかも、110分の映画で、彼女は始めの60分は登場してこなかった。ああ、ひょっとしたら、この映画は、二人の若い男女のラブストーリーではなく、形だけ大学を卒業しただけでなく、年増女に男にされて、青年を卒業して大人になる物語だったのかと、やっと気づきました。恥ずかしいことに、私は花嫁を奪うシーンばかりに酔っていただけでした。

 

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新党より総括だろ

2016-03-01 23:14:37 | 政治

かつて、70年代に『総括』という言葉がやけに流行った。当時の学生にとって、この言葉は自分の生き方を懸けるような重い響きを持つこともあった。事実、幾人かの若者がそれで命を失った事件もあった。いまや、死語となった『総括』という古い言葉が、久しぶりに新聞の紙面に出てきた。「民維新党 高まらぬ期待」-失敗の総括-(日経新聞 2016・03・01朝刊)

確かに、党名を変える前に、何故政権から転がり落ちたか、という反省も、結論も、ましてや総括が無いのではないか。そんないい加減な政党に、「次の政権を任せられない」というのが世論の正常な感覚であろう。それがまかり通ってしまうのが、永田町の論理なのか、単なるだらしなさなのか。

思い起こせば、反省から逃れたい輩が橋下維新騒ぎに便乗して、選挙民の批判をすり抜けた議員たちの政党と、取り残されたが、反省の一文も書かなかった居直り議員たちの政党と、また元の鞘に納まって、今度はすべてをないまぜにして、党名を変えて、別人に成りすまそうというのが、今回の「民維新党」の実態ということだ。「開いた口が塞がらない」というのは、まさにこういうことを言うのだろう。

与党が世界と時代を掴めない錯誤だらけの復古主義ならば、野党は国内世論すら感じ取れない誤認ばかりの事勿れ主義だ。この国の政治はまったく情けない状況になろうとしている。

ともかく、各野党は、自民党がダブル選挙で勝利し、憲法改正に持ち込まれるのが怖くて、何とか阻止したいのだろうが、それならば、野党がまさに野合をして、『護憲連合』でも作れば、その思いは十分に足りるのではないだろうか。

民主主義というのは、ギリシヤ・ローマの時代から、野望を持つ煽動家によって政治の根底から歪められる危険性があるようだ。この國に、ともかくも西欧的な民主主義を移植してくれたアメリカでも、今や止められないトランプ旋風が起きている。日本も、首相公選制ならば、石原慎太郎や橋下徹も首相になれる可能性はあっただろう。そういう危うさと常に隣り合わせにあるのが、民主主義という人工的な制度なのかもしれない。

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