近頃、「忖度」という言葉が公用語になりました。昔は、この言葉より、「気配り」とか「ゴマスリ」と言っていたような、時に、それが度が過ぎていた場合に「阿る」「諂う」と言っていたような気がします。
「忖度」が一般語化した背景には、本来権力者に媚びない職業であるべきの公務員やマスコミ・出版関係者に権力者への「顔色窺い」や「従属性」が現れたからかもしれません。
この国には、まだ定説となっていない新しい論考を載せる「新書」という出版形式があります。俗に三大新書(岩波、中公、講談社)と言われても、時代のエポックを巧みに躱しながら、権力と正面衝突をしないというのが、長続きさせるコツなのかもしれません。時に『語らない』、時に『とぼける』という行動を選択する場合もあるのでしょう。
この國は「戦争に負けた」ことを「戦争を(天皇が)終わらせた」という「終戦」という言葉を今日まで使ってきました。
岩波新書の「巻末挨拶」は巻末に在っても、その実は「刊行挨拶」であると思います。
1949年の戦後の再刊にあたって、「崩壊と荒廃の中から立ち上がる」と論壇を再生しました。しかし、60年安保では語らず、ただ沈黙しました。やっと70年安保になって、戦争は「敗戦」だったと認めました。
ところが、その後に日中国交正常化をしました。その際に中国は先の戦争は日本の軍閥が起こしたもので、決して国民に責任はないという理解をしてくれました。その中国の好意を真に受けて、岩波書店は僅か7年後の1977年に、「日本軍部は中国に侵攻し」という一文を入れました。そして「戦争は終わった」という言葉も使いました。
その後、この国の政府は、元号法を成立させ、8・15を終戦記念日と定め、天皇在位60年を祝いました。
そこでまた、約10年後の1988年「日本軍部は日中戦争の全面化を強行し」と軍部の責任を現す一文を挿入し、天皇と国民の戦争責任に触れない立場をとりました。
本来は、時代の表象の変化を捉えて、刊行挨拶を変えるべきなのでしょうが、昭和天皇崩御に、加えて、ベルリンの壁崩壊も、運悪く一年後であったため対応できませんでした。
一旦、機を逃すと、事件はそう都合よく起きません。そのまま漫然と時間が経ちました。
漸く2006年になって、自社の刊行部数をきっかけに、戦争の関わることは「過去のモノ」として葬り、主に未来に目を向けた刊行挨拶としました。
以上が、私の少々勝手な、岩波新書の「巻末挨拶」に関わる「戦争の(責任)の捉え方」の感想や気付きです。
2006年以降現在まで、この國は、特定秘密保護法・集団的自衛権憲法解釈・安保関連法と急速な右傾化の道を進んでいます。そろそろ刊行挨拶を変える時期であろうと思います。下手して「憲法改正」がやってくると、また難しいことになってしまいそうです。
我家の書架には数十冊の岩波新書があります。そこに一冊だけ「巻末挨拶」がないモノがありました。それは丸山真男『日本の思想』1961年版です。丸山は1949年の「巻末挨拶」が気に入らなかったのではないか、と勝手に想像しています、…?参考までに以下に添付します。