1941(昭和16)年9月6日に近衛首相はグルー駐日大使と晩餐をしている。
「今晩近衛公爵は私を彼の友人の私邸の晩餐に招いた。」との書き出しで始まる。そして、近衛は、(従って日本政府は)ハル四原則に決定的に且つ全面的に同意する者であるとし、「自分は陸海軍首脳部の力強い協力を受けている」と話した。完全な解決に行きつくには他国による経済的圧迫に対する憤慨が高まって行く現在、半年後、一年後に解決を成就できるかどうか保証できない、「大統領との会談はできるだけ早く行いたい」という切なる希望をした。
近衛は「四方の海」で動いたのではあるまい。晩餐は前から予約していたのだろうし、3日前の「帝国国策遂行要領」が決まる大本営政府連絡会議では、彼は軍部の要領案を鵜呑みしたことになっている。こうした近衛の行動は、実に不思議だ。
近衛は陸海軍首脳に悪く言えば操られている。ハル四原則を実行できないことは明らかなのに、大統領との会談はしたいと言う。果たして、この人物はあの厳しい日米との外交関係の中で対応できる能力があったのだろうか、という疑念が生まれる。9月6日、当日の御前会議では「帝国国策遂行要領」が決議され、―帝国は自存自衛を全うするため…戦争辞せざる決意のもとに概ね10月下旬を目途とし、戦争準備を完整す。②帝国は右と並行して、外交手段をつくし、…③外交交渉10月上旬に至るもなお我が要求を貫徹しうる目途なき場合においては、直ちに対米・英・蘭開戦を決意する。―とされながら、近衛は、此の乖離をどう埋める気だったのだろうか。
無能で嘘つきな指導者というのは今もいる。
30回近く会って「北方2島を返還したら、そこに米国のミサイルを置くんだろう」と言われて、尻尾巻いて退散した。その言葉を引き出すまでいくら金を使ったんだろうか。下関の河豚で換算したら、全く天文学的な計算になるだろう。
今、同じ理屈のことがウクライナで起きている。周辺国から自国領土を守る大義の為の侵略は、90年前の満州事変も、日露戦争も、日清戦争も同じ動機だ。時代は変わったようで変わって居ない。だからこそ歴史は修正したり改竄してはならない。