玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

映画の色

2014-11-24 22:18:03 | 雑感

錦織のためのWOWOW加入で、最近映画を見る機会が増えた。先週には日本映画を2本ばかり見た。「清州会議」「永遠のゼロ」だが、前から日本映画を見ていて感じていたのだが、なんというのか画面の色が何となく橙のような暖色系の色に見えるのだ。アメリカ映画は金色や黄色に見えるし、中欧の映画は濃いブルーに、韓国映画は薄い空色に見えてくる。アジア映画は見たことがないが、たまに見るインドのスポット映像の色は赤っぽい。私の悪い癖で、多少こじ付け的であるが、映画にはその国の色があるように思える。それは、その国の風土のような、空気の色のような気がする。怪しい理屈だが、私にはそう思えるのだ。まあ、実際には、監督や製作者によって、一定の色遣いの差があるような気がする。そこに、彼らが生まれ育った地域や原風景の気候を映しているようにも見える。

日本映画の色の典型は、かつての日活ロマンポルノのエロチックな隠微さに全く欠けた暖色系の画面を思い起こさせる。そこには、温暖で陽当たりの良いがウサギ小屋のような郊外の分譲住宅や一面が硬質なコンクリートだが、南向きの住宅団地の世界みたいものが投影されている。それに反抗しているのか、北野映画はブルーを基調にしているようだ。昔若いころに見た白黒映画の溝口健二や黒澤明の抜けるように透き通った空間はどこに行ったのだろうか。

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クラス会

2014-11-17 20:51:50 | 雑感

先日、高校のクラス会に行った。あの会というのは、当たり前だが、全く年齢が同じと云うのが悲しい。友の老いは鏡のように自分の老いのことであり、今や女性はほとんど異性という匂いがしなくなっている。あまり行く意味も無いのだが、懐かしさに負けて行ってしまう。二次会でお坊ちゃんグループの高校時代からの溜り場だという飲み屋に案内されたが、ふと「こいつら、親が金持ちだったから、背伸びして、こんな飲み屋に行っていたのか」と非難を込めて、そいつらの顔をマジマジと眺めた。ふと店内を見回すと、どうもありふれた七十年代風の店だね。高校の時は新宿で「木馬」に行き、わかりもしないジャズを聴いて、大学に行ったら、渋谷の「時間割」にお茶してと云う、そのあたりまえの懐かしい造りだね。まだこういう店って残っていたんだ。配られたクラス会名簿を老眼越しに捜すと、やはりKは不明扱いだ。鬼籍に入った奴も何人かいる。来年は自分も入るのか、冷たい風が首の後ろをスゥーと通る。今月末は中学のクラス会もある。これが、この世代が生きてきた時間を相互に認識し合う儀式なのかな。でも、この数時間が楽しいのだから、多少の意味があるのか。

 何の関係もありません。鎌倉鶴岡八幡宮にて。

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I've never been to me

2014-11-08 09:51:43 | 芸能

当時この歌が流れているときは、英語の意味は素通りしても、何となく甘ったるい曲の印象があったが、改めて歌詞を見てみると、日本語訳とのズレが面白い。「とても他の女の子が体験できない…」「未来の子…」とか綺麗に訳しているけど、英語はもっと生々しくて、今更聞くと、まるで映画のストーリーのような、妙に気恥ずかしく、独りでヤニ下がってしまう内容だね。何よりも、世界経済が欧米中心で勢いのあった頃の情景が浮かぶ。とても、揚子江やメコン川にはない世界、何よりも、我々に将来の時間がまだ一杯あった頃の歌だね。

 

 

愛はかげろうのように(I've never been to me)

面倒でしょうが、これでネットで探してください。

 

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明治維新と今

2014-11-03 00:25:14 | 雑感

ずっと昔、学生のころかな。何故、明治維新と言い、明治革命と言わないのか不思議に思ったものだ。明治維新は建武の中興と似ている。武家政治から天皇親政への政治体制の回帰という面で、そう思う。そう思わせないために、「維れ新たなり」としたのだろう。確かに、単純に天皇親政に変えたのではなく、その政治機構の担い手が変わった。1867(慶応3)年10月の大政奉還から12月の王政復古までの2か月の間に、公家は単純に公家政治の復活だと思っただろうし、公武合体派の雄藩諸侯はやっと諸侯政治が始まったと勘違いしただろう。それが簡単に騙されて、突き落とされていく。王政復古という名附けに、これまた騙されるが、その実態は、下級貴族と下級武士の政権奪取、つまりクーデターであった。しかし、クーデターはそこで終わることなく、勅令という絶対権力によって、徐々に、ゆっくりと、着実に変革が行われた。まずは、版籍奉還、廃藩置県へと、幕藩体制という封建分国領有体制を崩壊させていく。その間、暴動を防ぐために、士族から武力を取り上げるための徴兵令も実施された。振り返れば、幕末から明治の黎明期までは、暗殺、騙し、欺きの連続であった。 

今の世にあっても、どれだけ騙されることが多い事か。特に最近は目に余る。昨年の食品偽装に始まり、偽作曲家、偽調査捕鯨、まだ解らないが論文偽装、昨今は、政治活動費の領収書偽造と、世情目まぐるしく人間の情けない姑息な嘘が目の前をどんどん通り過ぎていくが、その奥でもっとも悪辣な嘘がスルリと通り抜けていないだろうか。

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